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【記事翻訳】マスロックの歴史④:ノイズに何があった?! マスロック・サウンドの進化

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数年前、私たちは「マスロック」というジャンルを歴史的な観点から検討し、俗に「マスロック」と呼ばれ、理解されているものがいつ誕生したのか、その捉えどころのない結節点を探ろうとした。「マスロックの歴史」第1部〔日本語版/元記事〕では、1970年代末から1980年代初頭にかけて勃興しつつあったポスト・パンク、インディー、ノー・ウェイヴの音楽シーンを検討し、それらが、のちの1980年代に登場したSlint、Bastro、Bitch Magnetなどの、ジャンルの枠に収まらないバンドのためにいかに下地を築いたのか、そしてそうしたバンドが、1990年代を通して続くこのジャンルの第一波を形づくるうえでどのような役割を果たしたのかを見てきた。

 

「マスロックの歴史」第2部〔日本語版/元記事〕では、1960年代末から1970年代にかけてのプログレッシブ・ロックとジャズ・フュージョンの歴史、そしてそれらのジャンルが、変拍子や複雑なリズムを用いることによって、より実験的な音楽形式へと至る道筋を切り開いたこと、さらには「プログ・ロック」がマスロックというジャンルに与えた影響に焦点を当てた。このシリーズで直近に公開された記事「マスロックの歴史」第3部〔日本語版/元記事〕では、さらに時代を遡ってジャズの発展を取り上げ、ラグタイム、スウィング、バップ、クール・ウェイヴ、フリー・ジャズ、モダン・クリエイティヴといったさまざまな潮流が、リズムや拍子をどのように異なる仕方で用いてきたのか、そして現代の実験音楽におけるポリリズム、変拍子、シンコペーションの使用に対して、それらがいかに影響力のある音楽となったのかを検討した。

 

マスロックを代表する2枚のアルバム、Don Cabの《For Respect》とTTNGの《Animals》のサウンド上の違いに当惑するなら、それも当然である。《At Action Park》と《Fruit Island》を並べて聴いてみれば、そこでもまた鮮烈な対照にぶつかることになる。初期のマスロックはノイジーで、分節的で、何よりもパーカッション主導だった。現代のマスロックは軽やかで、ジャジーで、何よりもギター主導である。いったい何が起きたのだろうか?

 

そこで今度は時代を一気に進め、千年紀の変わり目に目を向けることにしよう。ここでは、マスロックの発展における重要な転換、すなわち1990年代を通じて、大音量で攻撃的なギター、分厚くノイジーなベース、容赦なく叩きつけるドラムによって特徴づけられていたジャンルが、2000年代に入って実験と拡張を始めていく過程を探っていく。そこでは依然として複雑なリズム、変拍子、入り組んだ楽曲構造が存分に追求されながらも、音色のパレットは、歯切れのよいクリーンなギター・トーンを取り込み、ムードよりもメロディーを重視する方向へと広がっていった。そして、26は4よりも踊れる(26 is Dancier than 4)*1ことを証明したのである。

 

1985–1989

MauriceからSlintへ:デイヴィッド・パホがシーンに登場し、自らのサウンドを形づくる

マスロックにクリーンでジャズ的なトーンのギターが最初に導入された瞬間を探すには、1980年代半ば、このジャンルの源流にまで遡り、デイヴィッド・パホ(David Pajo, 1968–)とSlintに目を向けなければならない。1986年にSlintが結成される以前、Slintのギタリストであるパホと、Slintのドラマーであるブリット・ウォルフォード(Britt Walford, 1970–)は、ともにルイヴィルのバンドMaurice(1983–1986)で演奏していた。このバンドが残した唯一のリリースは、グレン・ダンジグ(Glenn Danzig, 1955–)の依頼によりラジカセで録音された1985年のデモ《The First Shall Be Last》である*2。

 

Mauriceの音楽は攻撃的で、筋肉を誇示するような喉の奥から響くロック・サウンドを持ちつつ、そこに奇妙さと独自性が入り混じっていた。そのためバンドはグレン・ダンジグの耳に留まり、まだ十代でありながらSamhainとツアーを行うことになった*3。最終的にバンドが終焉を迎えたのは、ウォルフォードとパホが、メタルやパンクのバンドから受ける影響をより少なくし、自分たちにとって異質で新しい響きを持つ音楽を書きたいと望むようになったためである。ウォルフォードとパホは、1980年代半ば当時のメタルやハードコア・パンクに対するアンチテーゼとして、ソロを用いないクリーン・トーンのギターをフィーチャーした楽曲を作曲し始めた。それは同時に、より技巧的で、リズム面でも複雑な種類の音楽だった*4。

 

Mauriceが最後に書いた曲は、やがて手直しされてSlintの〈Pat〉となり、Slintのファースト・アルバム《Tweez》に収録された。よりクリーンなトーンのギター演奏へと方向転換したことについて、パホ自身は、その決定的な影響源を次のように挙げている。「3つのM――Minutemen、Meat Puppets、それにMishimaのサウンドトラックだ。それを聴いて、強く歪ませたトーンと同じくらい、いや、それ以上に、クリーンなギター・トーンでも人の感情を呼び起こせるんだということに気づいた。*5」

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パホとウォルフォードが、より荒々しさの少ないクリーンなトーンへと向かって行ったサウンド上の探究は、〈Pat〉だけでなく、《Tweez》の大半で聴くことができる。そこにはジャズのように響くクリーン・トーンのギターがはっきりと顔を覗かせており、とりわけ2曲目の〈Nan Ding〉で顕著である。《Tweez》のリリース後、Slintのサウンドとスタイルは、記念碑的アルバム《Spiderland》に至るまでに劇的に変化した。そこに収録された音楽は、ポスト・ハードコアや、よりヘヴィな音楽からはるかに強い影響を受けたように響き、〈Nosferatu Man〉や〈Good Morning, Captain〉のような、咆哮するヴォーカルと金切り声を上げるようなギターを伴う楽曲によって、Slintはマスロック、ポスト・ロック、ポスト・ハードコア、スロウコア、エモ――まだ続けられるが、ここで止めておこう――といった諸ジャンルにその名を刻むことになった。しかしパホはその後、1990年代に入ると、《Tweez》で試みたクリーン・トーンのギター・ワークをさらに発展させ、シカゴを代表するマス的かつジャジーなポスト・ロックの論客、Tortoiseに参加することになる。

 

1990年代

Tortoiseとアメリカ中西部のエクスペリメンタル・ロック革命

1990年に結成されたTortoiseは、当初Mosquitoと名乗る予定だった。その初期ラインナップは、実質的には2組のリズム・セクションから成り、ジョン・マッケンタイア(John McEntire, 1970–)とジョン・ハーンドン(John Herndon, 1966–)がドラムを、バンディ・K・ブラウン(Bundy K. Brown)とダグ・マッコームズ(Doug McCombs, 1962–)がともにベースを担当し、そこにマリンバやヴィブラフォンの音もひらめくように用いられていた。(タイラー・ウィルコックス(Tyler Wilcox). Don’t Call It Post-Rock: A Deep Dive Into Tortoise’s Best Live Sets. Pitchfork, 2021)ファースト作を制作する頃までには、マルチ・インストゥルメンタリストのダン・ビトニー(Dan Bitney, 1964–)が加わり、バンドは5人編成へと拡大していた。当時のほかのインストゥルメンタル・ロックのバンドからTortoiseを即座に際立たせていたものの一つが、その楽器編成だった。

 

ベーシスト2人とドラマー2人を擁したことで、その音楽は必然的に、当時のギターを基盤とした音楽とは異なる響きを持った。とりわけTortoiseがシーンに登場したのが、1990年代初頭のグランジ全盛期であったことを考えればなおさらである。Tortoise、とりわけ初期のアルバムを聴いて重要なのは、単にベーシストを2人使っていたということではなく、それをどのように使っていたかである。その音楽はダイナミクスによって駆動されており、さらにヴィブラフォンとマリンバを用いることで、歪みや攻撃性ではなく、ニュアンスと内省性を備えたものとなっていた。Tortoiseのクリーン・トーンでジャジーなサウンドのかなりの部分が、1980年代のDIYパンクの美学から生まれていたという点は興味深い。

 

「僕は80年代にパンク・バンドをやっていた」とダン・ビトニーは語っている。「あの時代の出身者には、それに伴うエートスがあるんだ。ある種の『自分たちでやる』ということ、自分のやりたいことをやる、というね。*6」アウグスト・コンテント(Augusto Contento)が監督したドキュメンタリーParallax Sounds(Cineparallax, 2012)は、1990年代のシカゴの実験音楽シーンの文化と環境をきわめて詳細に記録している。Tortoise、Gastr Del Sol、Storm and Stress、そしてのちのDon Caballeroといったバンドは、グランジ時代のメインストリーム・ロックにおける定型を拒絶し、1990年代を通じて実験的ロック音楽の震源地となったシカゴに、一つの音楽シーンを作り上げた。そしてそのシーンは、その音楽をいかに定義しにくいかということによって、大きく特徴づけられていた。この音楽コミュニティはDIYパンクの姿勢から影響を受け、それが、「ロック・バンドとは何なのか、そして何たりうるのか」をめぐる、実存的かつ実験的な探究へとつながっていった。

 

Tortoiseは、記念碑的な1996年のセカンド・アルバム《Millions Now Living Will Never Die》によって、自らのシグネチャー・サウンドを確立し、インストゥルメンタル・ロックの世界における圧倒的な存在となった。この時点でバンドには、ベースとエレクトリック・ギターの双方を演奏するパホも加わっていた。パホのギター・ワークは、《Tweez》で聴かれた初期のギター演奏を成熟させたもののように響き、クリーン・トーンによる、ほとんどジャズのようなギター・スタイルを探究している。〈The Glass Museum〉、〈Along the Banks of Rivers〉、そしてアルバムの冒頭を飾る20分に及ぶ大作〈Djed〉といった楽曲は、複雑なリズムを取り入れたマス的な実験音楽という文脈のなかで、クリーン・トーンのギターとベースによって何が可能なのかを示している。

 

セカンド・アルバムの頃までには、そしてその後の作品においても、Tortoiseはクラウトロック、ダブ、エレクトロニカ、さらにはプログレッシブ・ロックからの影響まで、自らの音楽に取り込み始めた。(ジム・アレン(Jim Allen). From Tull to Tortoise: Post-Rock’s Proggy Past. CMJ.)こうしたジャンル間の交配によって、彼らは「ポスト・ロック」バンドというラベルを貼られることになった。しかしここでの目的に照らせば、彼らがクリーン・トーンのギターとベースを、ジャズ的な楽曲構造やフィーリングと組み合わせて用いたことは、マスロック・コミュニティのかなり広い部分にも影響を及ぼした。したがって、ここでポスト・ロックとマスロックの違いについて議論するつもりはない。両ジャンルの歴史は非常に密接に結びつき、互いに織り合わされながら、複数のジャンルからなる実験的ロック音楽のパッチワークを作り上げているので、おそらく両者を比較するだけでシリーズを一本作れてしまうだろう。そしてTortoiseは、ポスト・ロックとマスロックのベン図の重なる部分に難なく置くことのできる、多くのバンドのうちの一つにすぎない。

 

1990年代半ばから後半にかけてTortoiseの人気が高まり始めると、クリーンなトーンの2人のベーシストを擁し、より複雑なリズム・パターンを持つジャズ的な楽曲を演奏するバンドの波が、アメリカ中西部一帯に広がり始めた。この温かみのあるベースとクリーン・トーンを特徴とする中西部のサウンドの発展に寄与した、特筆すべきバンドをいくつか挙げるなら、Dianogah、Sweep the Leg Johnny、Volta do Mar、Ativin、The For Carnation、そしてSeamである。

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意図的だったにせよ、そうでなかったにせよ、Tortoiseはインストゥルメンタル・ロックの世界のかなり広い部分に影響を与えた。そしてそれは、彼らの地元であるシカゴの音楽シーンから始まった。ジャスティン・シンコヴィッチ(Justin Sinkovich)(Thumbnail、The Poison Arrows、Atombombpocketknife)によれば、この影響は、何か真空状態のなかで生じたのではなく、有機的に育っていったものだった。マスロック、ポスト・ロック、ノイズ・ロックは、シカゴのアンダーグラウンド音楽という一本の樹から伸びた、ほんの小枝にすぎなかった。The Fireside BowlやThe Empty Bottleでは、どんな夜であれ、観客はマスロック・バンドがBrise-Glace、Trans Am、そしてもちろんTortoiseのようなポスト・ロック・バンドとステージを共にする姿を見ることができた。ジャズの色合いを帯びたクリーンなギター・トーンと、型破りな楽曲構成・アレンジというTortoiseのアプローチは根づき、広がっていき、さりげなくマスロックを、21世紀を迎える頃にその特徴となる諸要素へと向かう軌道に乗せていった。要するに、よりハードで耳障りなマスロックのサウンドが後景に退き、より豪華でメロディアスな、ギター主導のポスト・ロック・サウンドが前面に出るようになったのである。そして、こうしたモチーフの変化はまったく理にかなっている――豊かなローカル音楽コミュニティにいれば、多種多様なミュージシャンたちと関わることになる。多種多様なミュージシャンたちから刺激を受けることになる。しかし、この街で最も影響力があったのは、文句なしにTortoiseだった。

 

上に挙げたバンドのなかでも、DianogahとVolta do Marはとりわけ、2人のベーシストを擁するというTortoiseの特徴を共有しており、非常に温かみのあるクリーンなトーンによって、ひとつひとつの音を明瞭に響かせていた。また、ベースを重視することによって、コードよりもリフや反復的な音型によって音楽を支えることが可能になった。こうした要素は、変拍子やますます複雑化するリズムとともに、エモからの影響が浸透し、2000年代を通じてこのジャンルを拡張していくにつれて、マスロックにおいてさらに大きな影響力を持つようになる。The For CarnationとSeamもまた、マスロックの形成に関わったバンドをそのルーツに持つという点で注目に値する。

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The For Carnationは、1990年代初頭にSlintが解散したのち、ブライアン・マクマハン(Brian McMahan, 1969–)によって結成された。中心人物であるマクマハンに加え、The For CarnationにはSlintのメンバーだったブリット・ウォルフォードとデイヴィッド・パホ、さらにTortoiseのジョン・ハーンドンとダグ・マッコームズも、複数の作品に参加している。The For Carnationの音楽は遅く、整然としていて、静かで陰鬱である。Slintよりも一般的なリズムに基づいているとはいえ、それでも変拍子はふんだんに使われており、楽曲構造についてもかなり多くの実験が行われている。

 

とりわけパホ、ハーンドン、マッコームズがバンドの最初の2枚のEPに参加したこともあり、その音楽にはTortoise的なクリーン・トーンのジャズ・サウンドも満ちている。Seamは1991年にシカゴで結成され、元Bitch Magnetのフロントマンであるスヨン・パーク(Sooyoung Park, 1967–)がギターとヴォーカルを担当して率いた。Seamは、1990年代のアメリカ中西部の多くのマスロック・バンドと同様にTouch and Go Recordsを活動の拠点とし、ジャングリーな1990年代のインディー・ロックにスロウコアやマス的な要素を大量に混ぜ合わせることで、落ち着いてリラックスした、そして全般的により物悲しく内省的な楽曲を作り上げた。

 

American Football、Owls、そしてフィンガー・タッピングするフレットボードの到来

「マスロックの歴史」第1部では、キンセラ兄弟、Cap’n Jazz、そして「ミッドウェスト・エモ」の台頭について論じた。しかし、ポスト・ハードコアやノイズ・ロックに近接したサウンドを持つ初期マスロックから、過去20年間に登場してきた、ジャングリーで、ときにはジャジーで、内省的かつムーディーなマスロックへの進化を語るのであれば、American Footballに触れないわけにはいかない。American Footballの音楽スタイル全般は、トゥインクリーなマスロックと形容されてきた。このサウンドは、2000年代を通じてエモ・シーンを特徴づける要素の一つとなった。

American Football、とりわけ1999年のセルフタイトルのデビュー・アルバム《American Football》についてはすでに実に多くのことが語られてきたが、もう一つ興味深いのは、1990年代末に彼らの周辺で、似たサウンドを持つバンドが活動していたことである。Cap’n Jazz、そしてのちにはOwlsで活動するヴィクター・ヴィラリアル(Victor Villarreal)は、サム・ズリック(Sam Zurick, 1975–)(Owls、Joan of Arc、Make Believe)と組んだGhosts and Vodkaにおいて、マスロックにおけるフィンガー・タッピングによるギター演奏の最初期の試みのいくつかを提示した。このバンドの活動期間は1998年から2001年までと短かったが、アップビートで速いテンポのグルーヴと、メロディアスなフィンガー・タッピングのリフによって、マスロックの一つの雛形を作り出すことに貢献した。彼らが1990年代末に発表していた音楽は、現在聴いてもなお現代的に響く。それはちょうど、American Footballが「ミッドウェスト・エモ」を特徴づけるサウンドを構築していたのと同じ時期だった。このサウンドは、変拍子、型破りなロックの楽曲構造、そして互いに織り合わされたギター・パートを用い、インディー・ロックの範囲を越えた作曲上の志向を持つことによって、ポスト・ロックとマスロックの領域にしっかりと位置している。

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C-Clampもまた、American Footballが登場したイリノイ州シャンペーン/アーバナ周辺出身の、スロウコア的な響きを持ち、ときにはジャジーで、そして非常にマス的なバンドである。C-Clampのヴォーカルは、それ以前の多くのマスロック・バンドよりもはるかに物悲しく、エモーショナルに響いた。また、Tortoiseのようなジャズの色合いがあり、そこに精密なドラムと、拍子やリズム・パターンの興味深い使い方が組み合わされ、美しいクリーン・トーンのギターが一面を覆っていた。2000年代初頭までには、American Football、Ghosts and Vodka、C-Clampはいずれも活動を終えていたが、マイク・キンセラ(Mike Kinsella, 1977–)とティム・キンセラ(Tim Kinsella, 1974–)は、ヴィクター・ヴィラリアル、サム・ズリックとともに2001年にOwlsを結成した。

 

スティーヴ・アルビニがレコーディングした彼らのファースト・アルバム《Owls》は、Cap’n Jazzの1990年代的なエモ・サウンドを引き継ぎながら、それを成熟したソングライティングと演奏と組み合わせている。それは同時に、Ghosts and VodkaとAmerican Footballの自然な延長線上にあるもののようにも響く。Owlsでは、ヴィラリアルのギター・タッピングとティム・キンセラのエモーショナルなヴォーカルが前面に押し出されており、ここまで来ると、「これはエモ・バンドなのか、それともマスロック・バンドなのか、それとも一体何が起きているんだ?!」という、境界の曖昧な領域へと足を踏み入れることになる。

 

2000年代から現在まで

Don Caballero、《American Don》によってマスロックにパラダイム・シフトをもたらす

Don Caballeroはマスロック史上最も重要なバンドの一つである。このウェブサイトを見てもそれがまだ伝わっていないとすれば、私たちはこれまで何年にもわたって、このサイトでDon Cabについて何度も取り上げてきたし、バンドについての長大な回顧記事まで掲載している。1990年代前半のDon Cabは、そのサウンドにおいてかなり力強さを誇示していた。デイモン・チェ(Damon Che, 1968–)による驚異的で、もはや伝説的といってよいドラムと、マイク・バンフィールド(Mike Banfield)とイアン・ウィリアムズ(Ian Williams, 1970–)のギターが組み合わさることで、マスロックがまだ誕生したばかりだった時代に、このジャンルを確立することに貢献した。バンドは1995年の《Don Caballero 2》と1998年の《What Burns Never Returns》のあいだに活動を休止したが、この2枚のアルバムのあいだに、非常に興味深いことが起きた。イアン・ウィリアムズが、いわばギター演奏というものを完全にひっくり返してしまったのである。Storm and Stressの1997年のセルフタイトルのデビュー・アルバム《Storm and Stress》で多くの音楽的実験を行ったのち、ウィリアムズはギターでフィンガー・タッピング奏法を試し始めると同時に、ループ・ペダルを取り入れ、豊かで複雑なギター・メロディーをループさせ、それらを幾重にも重ねることで、バンドのサウンドを再定義し始めた。1998年頃、ウィリアムズはギター・ループの構築について、TortoiseのドラマーでありBastroの元メンバーでもあるジョン・マッケンタイアに相談した。マッケンタイアはAkai Headrushを薦めた。このペダルとウィリアムズはすぐさま完璧に噛み合い、ウィリアムズが半ば冗談で「ゼロ拍子」と呼んだもののなかで、テクスチャーを組み立てていくようになった。

 

Don Cabが《What Burns Never Returns》で音楽シーンに復帰したとき、バンドのギター・サウンドは、新しく、異質で、刺激的な何かへと進化していた。アルバム全体を通して、ギターのフィンガー・タッピングやギター・ループのきらめきを聴き取ることができ、とりわけアルバム冒頭の〈Don Caballero 3〉と〈Slice Where You Live Like Pie〉でそれは顕著である。しかし、イアン・ウィリアムズがマスロックのギター演奏を前例のない新たな水準へと押し上げたのは、バンドが2000年に発表した大作においてだった。

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バンドの4枚目のフル・アルバム《American Don》は、ループ・ペダルを使って幾重にも積み重ねられた、いくつものタッピングによるギター・メロディーとともに動き始める。実際、このアルバムでは、2本のギターからベース・ラインに至るまで、タッピングが作品全体に浸透している。そして、〈You Drink A Lot of Coffee For A Teenager〉や〈A Lot Of People Tell Me I Have A Fake British Accent〉といった曲を聴けば、Don Caballeroのスタイルがその後に残した遺産を容易に見て取ることができる。そしてこれは、リズム面で行われている極端なまでの実験を軽視するものではない。《American Don》では、ギターのフレーズが絶えずパーカッションの時間軸と同期したり、そこから外れたりしながら漂い、メロディーとリズムを二項対立へと分裂させ、音楽についての従来の観念や形式そのものを解体している。多くの人にとって、これはDon Caballeroを代表するアルバムであり、マスロックというジャンルを体現する一枚である。そして、それに異論を唱えるのはなかなか難しい。

 

Minus the Bear、TTNG、そして2000年代の新世代マスロック

《American Don》以後、フィンガー・タッピングによるギター奏法、クリーンなギター・トーン、ループ・ペダルの使用は、このジャンルの定番となった。Minus the Bearは2001年に結成され、Seamと同じようなインディー・ロックの雰囲気を持ちながら、《American Don》期のDon CaballeroやGhosts and Vodkaのような、アップビートでダンサブルなリズムとギター演奏を備えていた。デュオのGiraffes? Giraffes!も2001年に結成された。彼らは過去20年間のマスロック・バンドのなかでも最も重要かつ革新的な存在の一つであり、ループ・ペダルを用いたギター・フレーズのループを、自らを特徴づけるスタイルとサウンドの中核的要素として取り入れた。イギリスでは、TTNG(当時はThis Town Needs Guns)が2002年に結成され、ティム・コリス(Tim Collis)のギター・ワークは、複雑に入り組んだポップのメロディーに、ほのかなジャズの感触と、リズムや拍子の独創的な使い方を融合させていた。2008年のTTNGの3枚目のアルバム《Animals》に至る頃までには、彼らはある種のマスロックのスタイルを決定づけるうえで大きな役割を果たしていた。それはディストーションというハードルを飛び越え、複雑な楽曲アレンジと目眩を起こすような拍子の使い方のなかに、ポップなメロディーとダンサブルなドラム・ビートが明確に存在する領域へと踏み込んだものだった。

 

2000年代から2010年代を通じて、新世代のマスロック・バンドが登場した。彼らは、1980年代半ばから後半、そして1990年代前半にかけてのマスロック第一波から育ってきたノイズ・ロックやポスト・ハードコアの影響を受けたバンドよりも、TortoiseやAmerican Footballのクリーン・トーンでジャズ的なギター・ワーク、あるいはDon CaballeroやGhosts and Vodkaのフィンガー・タッピングの超絶技巧に、はるかにしっかりと根を下ろしていた。

 

Piglet、Alarmist、Enemies、The Redneck Manifesto、Colour、Clever Girlは、こうしたタイプのバンドのなかでも特筆すべき存在であり、過去15年以上にわたって拡張を続けてきたマスロックのサウンド・パレットに貢献したバンドとして、ここで名前を挙げ、評価しておくべきだろう。

 

クリーン・ギターとフィンガー・タッピングのルネサンスは、アメリカや西ヨーロッパをはるかに越えて広がった。東アジアでは、toe、Lite、tricot、大象體操(Elephant Gym)といったバンドがいずれも、歯切れのよいクリーンなギターと、フレットボード上を目にも止まらぬ速さで駆け巡る演奏に、ジャズ的な装飾、精密なドラム、密度の高い複雑な作曲を組み合わせる音楽スタイルに根ざしている。そこから生まれたある種のスタイルとサウンドは、今なお1990年代のTortoiseとDon Caballeroによる実験に目配せしている。

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ひとまず、私たちの物語はここで終わる――では、ノイジーで獰猛に襲いかかるBreadwinnerから、チーターのようなスピードでフィンガー・タッピングを繰り出すメロディアスなマス・ポップのstandardsに至るまで、このジャンルを多様化させることに貢献したあらゆるバンドを取り上げることができただろうか……いや、もちろんできていない。そしてPele、The Mercury Program、Tubelord、その他、このジャンルへの貢献や後続のバンドへの影響についてもっと評価されてしかるべき多くのバンドには申し訳なく思う。それでも、このジャンルがどのような全体的基盤の上で進化し、さまざまなバンド、ミュージシャン、技法、音楽環境、そして実験によって、どのように形づくられ、また形づくり直されてきたのかを説明できていればと思う。

 

結局のところ、どう切り分けようとも、マスロックとは、特定のギター・トーンや、ギタリストがフレットボードをタッピングするかどうか、あるいは巨大なペダルボードを使うかどうかといったことを、はるかに越えたものである。この記事で取り上げたのは、マスロックという樹から枝分かれして伸びてきた数多くの曲がりくねった道の一つにすぎない。このジャンルは今なお絶えず拡張し、適応し続けている。そしてマスロックは、Town Portalのようにヘヴィにもなれば、Hellaのように仰々しくもなり、StrobesやMouse on the Keysのようにジャジーにもなれば、BattlesやThree Trapped Tigersのようにエレクトロニックで未来的なサウンドにもなりうる。マスロックとは、リズムの複雑さ、独特な楽曲構造、メロディーのフレージングを存分に追究する、ロックを基盤とした音楽というメディアを探究するための道具なのである。そしてもちろん、念のために変拍子も少々――このダジャレについては謝るような、謝らないような。

 

←マスロックの歴史③:5分考えよう、《Time Out》が最初のマスロック・アルバムなのはなぜか

→マスロックの歴史①:「じゃあもうブラック・フラッグもマスロックってコト?!」

*1:〔訳註〕TTNGの楽曲名。《This Town Needs Guns》(2008, Sargent House.)に収録。

*2:Chuter, J. 2015. Storm Static Sleep: A Pathway Through Post-Rock. Function Books.

*3:Bangs, L. (Dir.). 2014. Breadcrumb Trail [Film].

*4:Tennent, S. 2011. Spiderland (33 1/3 Series). Bloomsbury: Bloomsbury Publishing.

*5:Chuter, op.cit.

*6:Barrios, M. 2022. Thirty Years of Tortoise. Bandcamp.

【記事翻訳】マスロックの歴史③:5分考えよう、《Time Out》が最初のマスロック・アルバムなのはなぜか

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マスロックの歴史①では、マスロックというジャンルの民衆史を提示した。マスロックとは、米国中西部で始まり、その後世界各地へと広がっていった、不協和音と変拍子を特徴とするパンク・ロックの一風変わった潮流である。続くマスロックの歴史②では、さらに時代を遡り、プログレッシブ・ロックの勃興と、それがマスロックと共有する複雑なつながりについて探った。そして第3部では、必然的に、さらにいっそう過去へと遡ることになる。

 

なぜか? このマスロック史シリーズの構想を練り始めたとき、変拍子音楽の基礎がマスロックのムーヴメントによって生み出されたかのような印象を与えるわけにはいかない、ということが次第に明らかになってきたからだ。それはプログレッシブ・ロックのブームによって生み出されたものですらない。そこで私たちは、もう一つのムーヴメントを掘り下げる必要があった。それは、前述したどちらよりもはるかに名高く、人気を博したムーヴメントである。その音楽の大半はインストゥルメンタルで、演奏技術や技巧的能力に重点を置き、ポリリズムとシンコペーションを用いて、楽曲のなかに非典型的なリズム・パターンを生み出すことによって発展した。それは、「変拍子のバンド」は言うまでもなく、そもそも「バンド」という最初の概念を確立したムーヴメントだった。そのムーヴメントこそがジャズである。そして、これがその物語だ……

 

1900年代以前:「ラグタイム」の夜明け

1899年、テキサス北東部出身のアフリカ系アメリカ人ピアニスト/作曲家、スコット・ジョプリン(Scott Joplin, 1868–1917)が〈Maple Leaf Rag〉を発表した。この美しい作品こそが、「ラグタイム」をアメリカ音楽史のなかに確固として位置づけ、ジョプリンをその先駆者たらしめたのである*1。ラグタイムは1800年代後半に発展し、その人気の絶頂期はおよそ1895年から1918年まで続いた。これはきわめてアメリカ的な音楽ジャンルであり、ヨーロッパのクラシック音楽の旋律様式と、アフリカ音楽に由来するシンコペートしたリズム・パターンやポリリズムとを組み合わせたものだった*2。「ラグ」はピアノを基礎とする音楽形式であり、左手が通常のリズム・パターンでベース音を弾く一方、右手は「ズレた(ragged)」シンコペートしたパターンを演奏し、ときには左手が奏でるベースラインのリズムに対してポリリズムを形成した。こうして生み出されるシンコペートした旋律こそが、ラグタイムというジャンルを規定する中心的な特徴である*3。この点は歴史的な意味で重要である。というのも、シンコペーションとポリリズムが組み合わされたリズム上の複雑さに、ラグタイムのミュージシャンたちによるヴィルトゥオーソ的な演奏が加わったことは、20世紀初頭におけるジャズ音楽の誕生へとつながる、きわめて大きな音楽的発展だったからだ。アメリカン・ミュージカルに興味があるなら、ここにあるブロードウェイのスケジュールもチェックしてみてほしい。どうせ見たいでしょ。

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1918–1938

スコット・ジョプリンは1918年に死去し、ラグタイムもまた、ポピュラー音楽の一形態としては彼とともに死んだと考えられている。しかし、まさにこの時期、「ジャズ」は独立した一つの音楽ジャンルとして確立されつつあった。ラグタイム、フォックストロット、ブルースといった他のジャンルからジャズが分離し、独自のジャンルとなるに至った背景には、いくつかの重要な要因があった。それらは、ある意味では、マスロックがパンクやハードコアというジャンルから台頭し、そこから分離していった過程とよく似ている。おそらく最も重要な要因は、ジャズというジャンルの成立が音楽テクノロジーに大きく依存していたことである。後にジャズの代名詞となったサクソフォンは、実際には1840年代にクラシック音楽用の楽器として作られたものだったが、ヨーロッパのクラシック音楽には確固たる足場を築くことができなかった。ところが20世紀初頭になると、サクソフォンはニューオーリンズやシカゴのダンス音楽アンサンブルのなかで新たな生命を得ることになる。そして、テクノロジーによってもう一つ新たな楽器が生み出されると、そうしたアンサンブルはジャズ・バンドとして知られるようになり、新たなジャンルが誕生したのである。

 

サクソフォンが同時代的な楽器として導入されつつあったその頃、ニューオーリンズのドラマーたちは、複数のドラムとシンバルを一つの「キット」として同時に演奏できることを発見し、私たちが知る音楽のリズムそのものを変えていった。ジャズが発展するにつれて、一つのバンドに必要なすべてのパーカッション・パートを一人のドラマーが演奏する形へと移行していき、その結果、ジャズ・グループは従来存在した大規模なマーチング・バンドのアンサンブルよりも小規模になった*4。現代的なスネアドラムの誕生は、ドラムセットを構成する最初の要素となった。1900年以前、すべてのスネアドラムは木製シェルで作られており、そのため非常に土臭い音色を持っていた。世紀の変わり目になると、スネアドラムはブラスや金属製のシェルで作られるようになり、その音は、今日の現代的なスネアドラムを特徴づける高音域の鋭い「ポップ」音へと変化した。そして、それらがジャズ・ドラマーたちの使用するスネアドラムとなった*5。1910年に設立されたLudwig Drum Companyは、アメリカ製として初めてブラス・シェルのスネアドラムを製造し、ほどなくしてLudwigのドラムはドラム製造における圧倒的なブランドとなった。

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1920年代までにはドラムセットの基本的な土台が出来上がっていたが、それらすべての要素を一つにまとめ上げ、ドラムセットを完成させるとともに、その標準的な演奏法を生み出した人物が一人いた。ジーン・クルーパ(Gene Krupa, 1909–1973)(現代的ドラムセットの父)は、音楽史上もっとも著名なドラマーの一人だった。Ludwig Drum Companyはバスドラム・ペダルを開発し、クルーパはそれを録音で使用した最初のドラマーとなった*6。

 

ジーン・クルーパは1936年、現代的なドラムセットを使用した最初のドラマーとなった。他の大半のドラマーもすぐにクルーパのセットアップを取り入れ、それがやがてロックとジャズの双方で用いられる標準的なドラムセットの構成となった。1938年、クルーパは『ジーン・クルーパのドラム教本(The Gene Krupa Drum Method)』という書籍を著し、そのなかでクルーパが使用していたドラムセットの構成と演奏法について論じた*7。

シンコペートしたビート、そしてスウィングの到来

1930年代後半に近づくにつれ、多くの興味深い発展が起こっていた。シンコペートしたリズムから、「スウィング」するビートが生まれ、その周囲に複雑な旋律のアレンジメントが組み立てられるようになった。ミュージシャンたちは楽曲のなかで長い即興ソロを取るようになり、それによって作曲上の複雑さとヴィルトゥオーソ的な演奏が、ジャズを当時の他の同時代的なポピュラー音楽から際立たせる独自の要素となっていった。ジャズ・バンドのミュージシャンたちは、自分たちが作曲した楽曲によってではなく、ステージ上で披露するヴィルトゥオーソ的で創造性に富んだ演奏によって人気を集めるようになっていた。そして幸運なことに、ちょうどその頃、こうした新しい、小規模で移動可能なアンサンブル・バンド――新たな音とリズムを生み出すバンド――を必要とする、もう一つの文化的変化が起こりつつあった。それが禁酒法である。

 

1940–1960

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禁酒法の終焉後、ジャズの人気がますます高まり、スウィング・ミュージックがポップ・ミュージックの支配的な形式として台頭するにつれて、このジャンルを新たな、より実験的な領域へと拡張しようとする者たちが数多く現れた。ここでビバップ、クール・ジャズ、そしてフリー・ジャズが物語に登場する。1940年代のニューヨークでは、若いミュージシャンたちのグループが、当時のスウィングのような商業的に成立する音楽を作ろうとはせず、非公式に集まって演奏するようになった*8。彼らは自らに挑戦し、速いテンポ、非対称なフレージング、入り組んだ旋律、そして即興とソロへの大幅な依存を特徴とする「ミュージシャンのための音楽」を作ろうとしていた*9。ビバップのミュージシャンには、マイルス・デイヴィス(Miles Davis, 1926–1991)、セロニアス・モンク(Thelonious Monk, 1917–1982)、チャーリー・パーカー(Charlie Parker, 1920–1955)、ジョン・コルトレーン(John Coltrane, 1926–1967)、ディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie, 1917–1993)などがいた。

 

ビバップはジャズをより実験的な方向へと導き、ポピュラー音楽における旋律と作曲の限界を押し広げた。そして1950年代になると、ビバップをさらに実験的な領域へと押し進め、従来の拍の維持そのものをかき乱すジャズ・ミュージシャンたちが現れ、このムーヴメントは「フリー・ジャズ」と呼ばれるようになった。初期のスウィング・ジャズ、そして後のビバップは、旋律やハーモニー、さらにはシンコペーションやポリリズムの使用という点で複雑な作曲上の側面を備えていたものの、その音楽は依然として概ね4/4拍子で演奏されていた。

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フリー・ジャズには通常、ビートとなる大まかなリズム上の脈動が存在していたが、変拍子を実験的に用い、場合によっては拍子そのものをまったく用いないことさえあった。フリー・ジャズはリズムだけでなくハーモニーについても開かれたアプローチを取り、通常はいかなる和声構造も持たずに演奏される。このことと即興演奏とが結びついたことで、オーネット・コールマン(Ornette Coleman, 1930–2015)のようなジャズ・ミュージシャンは、4/4拍子はおろか、いかなる拍子感も存在しない、狂乱するドラムのカオス的な領域へと楽曲を持ち込み、そのなかで主旋律を担う楽器がコール・アンド・レスポンスを突発的に繰り広げることができた。オーネット・コールマンは1950年代のHellaだった、と言ってもいいかもしれない。

 

デイヴ・ブルーベックが変拍子をクールにする

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私たちのマスロック史シリーズを貫く中心的なテーマの一つは、変拍子が時代とともに拡散していった過程である。この物語を語るうえでは、変拍子の音楽をメインストリームへと持ち込んだ人物について論じることが重要となる。デイヴ・ブルーベック(Dave Brubeck, 1920–2012)である。そして彼の物語が展開するのが、まさにこの「クール・ジャズ」の領域なのである。

 

クール・ジャズ(あるいは「ウェスト・コースト・ジャズ」)は、ビバップやバップといったジャズのスタイルに対する反応として生まれた。クール・ジャズは、速く、派手なビバップのスタイルとは対照的に、全般的によりリラックスした感触を持っていた。またクール・ジャズは、ヨーロッパのクラシック音楽の要素を取り入れ始め、モーダル・ジャズの発展にも影響を与えたほか、アフリカ、東ヨーロッパ、ラテン・アメリカの音楽的要素も含んでいた。クール・ジャズおよびウェスト・コースト・ジャズを決定づけるアルバムが1959年、Dave Brubeck Quartetによって発表され、世界を席巻した。

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Dave Brubeck Quartetの《Time Out》は、変拍子音楽の歴史において最も重要なアルバムの一つである。このアルバムは、さまざまな音楽スタイルと変拍子を用いることで、同時代の西洋音楽の限界を押し広げようとする実験として、意図的に作り上げられたものだった*10。アルバムの大部分では4/4拍子以外の拍子が実験的に用いられている。たとえばオープニング・トラックの〈Blue Rondo à la Turk〉には、伝統的なバルカン音楽やトルコ音楽の音楽的要素も取り入れられている。また、トップ40入りしたシングル〈Take Five〉は5/4拍子で演奏され、〈Three To Get Ready〉では曲全体を通して3/4拍子と4/4拍子が交互に現れる。そしてアルバム最後の2曲、〈Everybody’s Jumpin〉と〈Pick Up Sticks〉はいずれも6/4拍子である。ブルーベックは、より高度なリズムという観点から考えるよう大衆に挑戦を突きつけることこそ、ジャズ・ミュージシャンの仕事だと考えていた。

 

こうしたバランスを崩したような拍子にもかかわらず、《Time Out》は商業的に大成功を収めた。Billboard Chartsでは2位に達し、西洋音楽の他の形式における変拍子とモーダルなハーモニーの使用に長期的な影響を与えた。〈Blue Rondo à la Turk〉は後に、プログレッシブ・ロックのスーパーグループであり、マスロックにも影響を与えたEmerson, Lake, and Palmerによってカバーされた。これは、ジャズの変拍子的要素が実験的ロック音楽のなかへと徐々に入り込み、やがてマスロックの発展へと道を開いていった一例である。

 

1960–1990年代

1960年代が進むにつれて、ジャズは商業的な人気における足場を失い、ロックンロールがポピュラー音楽の支配的な形式となった。ロックンロールが誕生すると、実験的なジャズ・ミュージシャンたちが自らのレパートリーにロックを加え、ジャズ・フュージョンが生まれるのは時間の問題だった。1940年代のビバップ・シーンから登場したマイルス・デイヴィスは、1950年代後半にはクール・ジャズを実験し始め、1960年代後半までには複雑なジャズと荒々しいエネルギーを持つロックとを融合させていた。このシリーズの第2部で述べたように、1960年代後半には多くのロック・バンドもジャズの要素を実験的に取り入れていた。「プログレッシブ・ロック」のムーヴメントでは、King Crimson、Yes、Genesis、フランク・ザッパ、The Moody Blues、Soft Machine、Gongといった面々が、変拍子のジャズと優美なロック・ミュージックのバラードとを融合させていた。

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《A Silent Way》や《Bitches Brew》といったマイルス・デイヴィスのアルバムに参加した多くの共演者たちは、その後ジャズ・フュージョン・バンドを結成し、ロックとジャズを混ぜ合わせる試みをさらに続けていった。そうしたバンドには、The Mahavishnu Orchestra、トニー・ウィリアムス(Tony Williams, 1945–1997)のTony Williams Lifetime、Return to Forever、Weather Reportなどがあった。The Mahavishnu Orchestraは、おそらく他のどのフュージョン・バンドにもまして、マスロックの誕生に単独で最も重要な影響を与えた存在である。このシリーズの第1部で述べたように、Black Flagは1980年代初頭にインストゥルメンタル音楽や変拍子の実験を始めた際、Mahavishnuから強い影響を受けていた。そしてそのことが、より多くのパンク・バンドに楽曲制作において実験的かつ冒険的であることを促し、ポスト・ハードコア、さらには初期の角張ったマスロックへとつながっていった。

 

ジャズと変拍子の物語はここで終わるわけではない。1980年代、ニューヨークでダウンタウン・シーンとノー・ウェイヴのムーヴメントが衰退し始めると、モダン・クリエイティヴと呼ばれる新たなジャンルが登場した。これは、関連づけるべき自然な構造を持たない音楽を作ることを目指したもので、その音楽のアヴァンギャルドな性質は、ジャズ、ロック、そして完全なる不条理のあいだのどこかを流れていた*11。モダン・クリエイティヴを特徴づける要素の一つは、フリー・フォームの演奏を、構造化された作曲やモードのなかへと取り入れることである。モダン・クリエイティヴと結びつけられるミュージシャンには、ジョン・ゾーン(John Zorn, 1953–)、ビル・フリゼール(Bill Frisell, 1951–)、フレッド・フリス(Fred Frith, 1949–)、ティム・バーン(Tim Berne, 1954–)、セシル・テイラー(Cecil Taylor, 1929–2018)、オーネット・コールマンなどがいる。ジョン・ゾーンはモダン・クリエイティヴを最もよく体現する人物であり、彼のバンドNaked Cityや数多くのソロ・アルバムは、グラインドコアやスラッシュ・メタルといったジャンルから影響を受け、それらを伝統的なビバップ・ジャズからプログレッシブ・ロック、ダブ、アンビエント、サーフ・ミュージックに至るまで、ありとあらゆるものと組み合わせた。ゾーンはスパズコアの誕生に影響を与えた存在だった。

 

まとめ:マスロックとのつながり

この時点で、これらすべてがマスロックの歴史といったい何の関係があるのか、と疑問に思っているかもしれない。ジャズが生み出された文化を理解すれば、今日のマスロックとの類似点がますます見えてくる。多くの人にとって、ジャズは自らのやり方にひどく固執しているように聞こえるかもしれないが、一世紀前にそれが登場した過程は、過去数十年間におけるマスロックの登場と非常によく似ている。今日のマスロックは、ドン・チェリー(Don Cherry, 1936–1995)、セシル・テイラー、オーネット・コールマン、チャールズ・ミンガス(Charles Mingus, 1922–1979)、サン・ラ(Sun Ra, 1914–1993)、ファラオ・サンダース(Pharoah Sanders, 1940–2022)、マックス・ローチ(Max Roach, 1924–2007)、ミルフォード・グレイヴス、トニー・ウィリアムス、そして後期のジョン・コルトレーンといった音楽的パイオニアたちによる実験的なフリー・ジャズに、非常に大きな恩義を負っている。

 

マスロックは、単に変拍子を使うだけの音楽ではまったくなく、マスロックの生命力や感触は、さまざまな音楽的要素の組み合わせから生まれている。マスロックの音楽的構成において、ジャズはパンクやプログレッシブ・ロックと同じくらい重要である。The Minutemen、Black Flag、ジョン・ゾーンがいなければ、Tera Melos、Hella、Don Caballeroは生まれなかった。そしてThe Mahavishnu Orchestraがいなければ、Black FlagもThe Minutemenも生まれなかった。マイルス・デイヴィス、デイヴ・ブルーベック、オーネット・コールマン、ディジー・ガレスピーがいなければ、The Mahavishnu Orchestraもジョン・ゾーンも生まれなかった。ジーン・クルーパ、バディ・リッチ(Buddy Rich, 1917–1987)、ベニー・グッドマン(Benny Goodman, 1909–1986)といったミュージシャンたちが何十年も前に行った音楽的実験によって基礎が築かれていなければ、マイルス・デイヴィスやデイヴ・ブルーベックがそこから飛び立つための出発点も存在しなかった。20世紀のジャズ・シーンで花開いたリズムと旋律をめぐるあらゆる実験と、変拍子の音楽、あえて言うなら「マス」・ミュージックにおいてジャズが占めてきた重要な位置を抜きにして、マスロックの全体像を描き出すことはきわめて難しい。

 

←マスロックの歴史②:「マスをやる前にプログレを学びな」

→マスロックの歴史④:ノイズに何があった?! マスロック・サウンドの進化

*1:Blesh, R. 1981. "Scott Joplin: Black-American Classicist." in V. B. Lawrence ed., The Collected Works of Scott Joplin. New York: New York Public Library.

*2:Berlin, E. 2013, October 16. Ragtime. Grove Music Online. Oxford: Oxford University Press.

*3:Blesh, op.cit.

*4:Scaruffi, P. 2007. A History of Jazz Music: 1900-2000. New York: Omniware.

*5:Bruford, B. 2005. An Introduction to Summerfold Records. Summerfold Records BB001 (CD).

*6:“The History of Ludwig Drums.” Ludwig Drums Online.〔参照元ウェブサイトはリンク切れだが、こちらから該当記事を読むことができる〕

*7:Martin, S. C. “Gene Krupa’s Biography.” America’s Ace Drummer Man Gene Krupa.

*8:Davis, M. 1990. Miles: The Autobiography. New York: Simon and Schuster.

*9:ibid.

*10:McCurdy, R. C. 2004. Meet the Great Jazz Legends. Van Nuys: Alfred Music Publishing.

*11:Johnson, Keith. “Modern Creative”. AllMusic. Rovi Corporation.〔リンク切れ〕

【記事翻訳】マスロックの歴史②:「マスをやる前にプログレを学びな」

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「マスロックの歴史」第1部では、1980年代におけるマスロックの誕生と成長、そしてこの風変わりなジャンルが、次々と現れた先駆者や革新者たちによって徐々に切り拓かれ、1990年代、2000年代へと至った過程を記録した。よくあることだが、マスロックが生み出された特定の瞬間というものは存在せず、マスロックの本質と精神を形づくったさまざまな音楽的影響は、ロック音楽史をさらに大きく遡ってたどることができる。そのため、プログレッシブ・ロック、すなわち「プログレ」の音楽史を探っていくことが不可欠となる。1970年代に起こったこの刺激的なムーヴメントは、卓越した演奏技巧、拍子の複雑さ、洗練された構成を、現代的なロック音楽のそぎ落とされた性質と結びつける場をミュージシャンたちに提供した。そして、こうした原則は、のちのマスロック誕生において重要な役割を果たすことになる。プログレの物語は、その担い手たちが思い描いた壮麗さや幻想的なイメージに劣らず広大なものであり、そのため話が脇道に逸れないよう、ここでは少数の重要なバンドに絞らざるをえない(とはいえ、上掲のSpotifyプレイリストには、プログレ・ロックの名バンドを随時追加しているので、そちらも参照してほしい)。もちろん、全員を満足させることなど到底できないし、Gentle Giantの記念碑的なデビュー作に触れないという恐るべき事態をめぐって、意見と独善を武器にインターネット戦争を始めようと身構えているプログ通もきっといるだろう。だが、そんな連中はクソくらえだ。さっそく話に入ろう……

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1969–1971

King Crimson、フランク・ザッパ、そして…マイルス・デイヴィス

プログレ・ロックの物語を始めるうえで最適なのは、1969年1月13日だ。未知の音楽的領域へ乗り出すという共通の目標を持った5人のイングランド人が、バンドとして初めてのリハーサルを行うため、ロンドンの地下室に集まった。それから数か月後の7月、King Crimsonはロンドンのハイド・パークで50万人を前に開かれた無料公演で、The Rolling Stonesの前座を務めた。

 

King Crimsonが見せた精緻な器楽演奏と複雑さは、プログレ・ロックのブームに火をつけるうえで不可欠なものとなった。「Crimsonには一つの信条があった……俺たちは、とにかくTin Pan Alleyのレコードみたいに聞こえるものは何であれ演奏することを拒んだ」と、オリジナル・メンバーのピーター・シンフィールド(Peter Sinfield, 1943–2024)は語っている。「少しでもポピュラーに聞こえたら、それは却下だった。だから複雑でなければならなかったし、もっと広がりのあるコードを使わなければならなかったし、奇妙な影響が入っていなければならなかった。もし、ほら、あまりにも単純に聞こえたら、もっと複雑にした。7/8拍子とか5/8拍子で演奏したんだ」*1。マスロックのようなジャンルがしばしばまさにこうした点で批判されていることを考えると、興味深い発言である。

 

King Crimsonのデビュー作《In the Court of the Crimson King》は1969年末にリリースされ、バンドをたちまち国際的な人気へと押し上げた。暗く陰鬱な作品である《In the Court》には、不協和な楽曲構成と途方もなく変則的な拍子が満載されていたが、当時のロック・バンドとしてはまったく前例のないものだった。このバンドは、陰鬱で静かなパッセージから一転して演奏力を存分に発揮し、プロト・メタルへと移行することさえできた。当時の評価は、「力強さと独創性に満ちたシュルレアルな作品」*2というものから、端的に「まがいもののクソ」*3というものまでさまざまだった。今日では、ファンと批評家の双方から、最初から最後まで完全な形で成立した最初のプログレッシブ・ロック・アルバムだと見なされている。

 

もちろん、これとは別の見方、あるいは反論とさえいえるものとして、プログレの最初期のルーツは、Pink Floyd、Genesis、Yes、The Moody Bluesといったバンドとともに1960年代半ばに始まったサイケデリック・ロックのムーヴメントにまで遡れる、という考え方もある。しかし、King Crimsonをサイケデリック・ロックから際立たせていたのは、その音楽スタイルから、ロックンロールのブルースを基盤とする土台を大幅に取り除いたことだった。それまで、その土台はあらゆるロック音楽の背骨を形成してきたのである。The BeatlesからBlack Sabbathに至るまで、どのバンドもアメリカのブルースからの影響を公言していたが、Crimsonはこうしたモチーフを意識的に避け、その代わりにヨーロッパのクラシック音楽の作曲家と即興ジャズから影響を引き出した。King Crimsonの創設者であり、唯一一貫して在籍し続けたメンバーであるロバート・フリップ(Robert Fripp, 1946–)は、クラシック音楽からの影響が自身の文化的アイデンティティの重要な一部であると述べている。「たとえば、ギターが主として5拍子で動いている曲を演奏することがある。これはブルガリアのフォーク歌手にとってはまったく自然な拍子だが、ロックンロールをやろうとするアメリカのフォーク歌手にとってはそうではない。でも私はヨーロッパ人だから、ヨーロッパの音楽文化を用いることにかなり強い関心を持っているんだ」*4。1950年代、60年代、70年代の多くのイングランドのバンドが影響を求めて西のアメリカを見ていたのに対し、King Crimsonは東を向き、イーゴリ・ストラヴィンスキーやベーラ・バルトーク(Béla Bartók, 1881–1945)といった存在に目を向けていたのである。

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大西洋の反対側でも、さまざまなアメリカ人ミュージシャンが、やがて到来するプログレ・ロック、そしてその後のマスロックのムーヴメントに向けて、同じように地ならしをしていた。ここでとりわけ重要なアルバムが1969年に登場した。フランク・ザッパ(Frank Zappa, 1940–1993)の《Hot Rats》である。ザッパのキャリアはあまりにも多様であるため、その音楽的影響の要素は、20世紀後半のほとんどあらゆるロックのジャンルに見出すことができる。しかし、《Hot Rats》はザッパにとって初のソロ・アルバムであり、その大部分がインストゥルメンタル・ロックによって構成されていた。さらにこれは、16トラック録音機材を使って録音された史上最初期のアルバムの一つでもあり、そのことが《Hot Rats》をBillboardのアルバム・チャートへと押し上げ、インストゥルメンタル・ロックをメインストリームへと持ち込む一助となった。《Hot Rats》が登場したのは、強烈な器楽演奏力を武器に、まるで破壊球のように音楽界へ姿を現したKing Crimsonにまさに続く時期だった。

 

《Hot Rats》のリリースとほぼ同時期、ニューヨークでは別の重要な一連の出来事が進行していた。マイルス・デイヴィス(Miles Davis, 1926–1991)は、すでに第二次世界大戦後のアメリカン・ジャズにおける最重要人物の一人として確固たる地位を築いていた。デイヴィスは1969年の《In A Silent Way》でクール・ジャズから離れ始め、さらに1970年にリリースされた、徹底して型破りな《Bitches Brew》では、独特なリズム・パターンとポリリズム的な構造に焦点を当てながら、音楽的実験をいっそう推し進めた。このアルバムには多数のベーシストとドラマーが参加し、ジャズとロック双方の世界から集まったミュージシャンたちが混在することで、ロックとは言い切れず、かといってジャズでもないパターンを生み出した。その重要性は、そこからジャズ・ロック・フュージョンを生み出す基盤が形成されたことにある。たしかに、マイルス・デイヴィスをプログレ・ロックのムーヴメントに含めるのはいささか無理がある。しかし、このムーヴメントに対する彼の間接的な貢献が明らかになるのは、まだこの先のことである。

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1971–1978

プログレ・ムーヴメント:ファンタジー、インストゥルメンタル、そしてフィンガー・タッピング

ジョン・マクラフリン(John McLaughlin, 1942–)の音楽キャリアは、1960年代末にマイルス・デイヴィスのギタリストとして始まり、《Bitches Brew》ではそのギター・プレイが際立っていた。デイヴィスと演奏していた時期に、マクラフリンは、のちの40年間で最も影響力のあるドラマーの一人となるビリー・コブハム(Billy Cobham, 1944–)と初めて出会った。コブハムは機械のように演奏し、決して止まることなく、絶えずドラムを叩き伏せるようにプレイした。コブハムはキャリアを通じてツー・バスのドラム・パターンを取り入れ、変拍子やポリリズムのドラム・パターンを豪快に演奏するそのスタイルは、現代のマスロックにおけるドラム・スタイルの基礎を大いに築いた。コブハムとマクラフリンは、やがて自身のバンド、Mahavishnu Orchestraを結成する。そのデビュー・アルバムである1971年の《The Inner Mounting Flame》は、ロックとジャズの境界を曖昧にした画期的なインストゥルメンタル・アルバムであり、同時にプロト・メタル、伝統的なゲール音楽、さらにはインドの伝統音楽から取り入れられた複雑なリズム・パターンの影響も組み込んでいた。

 

1970年代を通じて、ほかにも刺激的なプログレ・ロック・アルバムが次々とリリースされた。1971年には、ロンドンのトリオEggが大胆なセカンド・アルバム《The Polite Force》を発表した。同じ年にはGenesisが《Nursery Cryme》をリリースしている。ちなみに、ギタリストのスティーヴ・ハケット(Steve Hackett, 1950–)は、ロック音楽でフィンガー・タッピングを用いた最初期のギタリストの一人とされている。これは現代のマスロック愛好者にとって欠かせない奏法となった。彼がこの奏法を使った理由は実用的なものだった。トニー・バンクス(Tony Banks, 1950–)の複雑なキーボード・パートとハーモニーを奏でるために、ハケットは両手を使って音を弾く必要があったのである。そのフィンガー・ワークは〈Return of the Giant Hogweed〉の冒頭で最もよく聴くことができるが、1973年の大作《Selling England By The Pound》に収録された〈Dancing with the Moonlit Knight〉の一部でも聴くことができる。

 

King Crimsonのオリジナル・ベーシスト兼ヴォーカリストであったグレッグ・レイク(Greg Lake, 1947–2016)は、2枚のアルバムに参加したのち1970年にバンドを脱退し、その後Emerson, Lake, and Palmer(ELP)を結成した。ELPは、クラシック音楽の影響を受けたロックという点でCrimsonの歩んだ道を引き継いだ。彼らの1973年の基軸的アルバム《Brain Salad Surgery》はその傾向をさらに押し進め、変拍子のリズムを中心とする実験的な楽曲に加え、ジャズの影響を受けた短めの楽曲も収録し、さらに当時の最新テクノロジーを取り入れていた。カール・パーマー(Carl Palmer, 1950–)は最初期のエレクトロニック・ドラム・キットとシーケンサーの一つを演奏し、一方キース・エマーソン(Keith Emerson, 1944–2016)は、Moogシンセサイザーをライヴで演奏した最初期のミュージシャンの一人だった。ELPと、Three Trapped Tigers、Monobody、さらにはBattlesのような、より現代的なエレクトロニック志向のマスロック・アクトとのあいだに共通点を見出さないのは難しい。

 

Yesはサイケデリックなバンドとして出発したものの、地元から台頭してきたKing Crimsonの卓越した演奏技巧を目の当たりにして以降、より多くのクラシック音楽からの影響を取り入れ、より技巧的な領域を探求するようになった。このことが最も明白に表れているのが、おそらく1971年のアルバム《Fragile》である。ドラマーのビル・ブルーフォード(Bill Bruford, 1949–)は、Yesに変拍子の使用を導入するうえで貢献したとされている。《Tales of the Topographic Oceans》は、おそらくYesの最高傑作であり、20分を超える4曲から構成された2枚組アルバムだった。誰の立場から見るかによって、この仰々しく、複雑で、メロドラマ的な音楽はプログの頂点ともどん底ともなりえたが、結果としてYesの最も特徴的な声の一つであったキーボーディスト、リック・ウェイクマン(Rick Wakeman, 1949–)の脱退につながった。しかし、それでもYesが止まることはなく、その翌年には《Relayer》を発表し、そこには〈The Gates of Delirium〉と題された、またしても20分を超える大作が収録されていた。

 

最後に、1960年代末から1970年代にかけてケント地方から生まれた大量の音楽にも触れておく価値がある。「カンタベリー・シーン」〔リンク切れ〕として知られるようになったこの地域は、プログレッシブかつアヴァンギャルドな音楽の一大拠点だった。カンタベリーのバンドの多くはプログレ・ロックと関連づけられていたが、音楽的にはアメリカのジャズ・フュージョンとの共通点の方が多かった。かつてEggに在籍していたデイヴ・スチュワート(Dave Stewart, 1950–)は、その後Hatfield And The NorthとNational Healthを結成した。この2つのバンドは、2000年代のマスロックで顕著になるクリーン・トーンのギター・スタイルを生み出すうえで一役買った。スティーヴ・ヒレッジ(Steve Hillage, 1951–)は、アラン・ホールズワース(Allan Holdsworth, 1946–2017)と並んでカンタベリー・シーンから登場した最も人気があり、重要なギタリストの一人だった(ヒレッジはDon CaballeroおよびBattlesのイアン・ウィリアムズに影響を与えている)。アラン・ホールズワースはプログレ・ロック・グループSoft Machineでキャリアを始め、その後フュージョン・グループTony Williams LifetimeやGongで演奏した。少なくとも1970年代末までは、すべてが活気に満ち、順調だった。

 

1979–1983

プログレ・ロックが死んだとき

プログレッシブ・ロックは、やがて自らの重みに耐えきれず内側から崩壊していった。1970年代半ばになる頃には、新しい世代の音楽ファンが、より速く、より短く、よりシンプルなサウンドを求めるようになっていたのである。一般の聴衆は、ELPやYesのようなバンドにエリート主義や大仰さを感じるようになっていた。彼らは、普通の人間には共感しようもないような幻想世界について、30分にもわたって延々と演奏しているように見えたのだ。聴衆がパンク・ロックのような刺激的な新しいムーヴメントへと殺到するにつれ、プログレは徐々にニッチなジャンルへと後退していった。既存のプログレ・バンドの多くは、次の3つの道のいずれかを選んだ。(i)解散する、(ii)プログレ・ロックというルーツを脱ぎ捨てるため商業路線へ進む(この最も顕著な例がGenesisである)、あるいは(iii)我が道を貫き、そのままプログレを続ける、というものだった。

 

ビル・ブルーフォードは、プログレッシブ・ロック、ジャズ・フュージョン、そしてマスロックのドラミングのいずれにも、紛れもない足跡を残した。King Crimson、Yes、Genesisのすべてに在籍した唯一のミュージシャンであり、多くのミュージシャン、批評家、研究者から20世紀最高のドラマーの一人と見なされている。1974年にKing Crimsonが最初の解散を迎えたのち、ブルーフォードは最終的に自身のバンドを結成し、単にBrufordと名づけた。このバンドはほぼ完全なインストゥルメンタル編成で、音楽的に複雑で、リズム感覚を狂わせるようなロック音楽を好んで演奏した。

 

アラン・ホールズワースをギターに迎えた彼らの1979年のアルバム《One of a Kind》は、その30年以上後に登場する多くのマスロック・グループと不気味なほどよく似ている。そして、後世の多くのバンドは、この時期にブルーフォードが生み出していた、ジャズの影響を受けたクリーン・トーンのギターと複雑なインストゥルメンタル・ロックに少なからぬ恩義を負っている。アルバム冒頭の〈Hells Bells〉〔リンク切れ〕は大部分が22/16拍子で演奏されているものの、豊かなシンセとギターによる対位法的なメロディがリズムの複雑さを滑らかに包み込んでいる。これはアルバム全体を通じて見られる多くの楽曲に典型的な特徴である。

 

King Crimsonでビル・ブルーフォードと組んでいたロバート・フリップは、1970年代末に、それとは異なる種類のサウンドを生み出していた。それはのちのマスロックという概念の形成に不可欠となるものだった。プログレ・ロックが成り果てた姿に幻滅したフリップは、パンク、ポスト・パンク、ノー・ウェイヴのムーヴメントがゴールドラッシュさながらに沸き立っていた1970年代末のニューヨークへ移住した。フリップは、プログレ・ロックの世界から距離を置こうとして、1970年代末に多くのパンクおよびノー・ウェイヴのバンドやミュージシャンと共演した。そこにはThe Dead Boys、Blondie、Talking Heads、ブライアン・イーノ、The Damnedなどが含まれていた。フリップ初のソロ・アルバム《Exposure》では、友人たちが入れ替わりながらバック・バンドを務めたが、そこではパンクとプログのミュージシャンが、文字通り初めて一緒に演奏していた。その結果生まれたのは、プログレのように複雑でありながら、より攻撃的で、感触としてははるかに角張った音楽だった〔リンク切れ〕。

 

1981年には、ブルーフォードとフリップの双方が、新たに再結成されたKing Crimsonで共演した。それはポスト・パンク的な傾向を持つロック・バンドという形をとりながらも、ジャズや一部のプログからの影響を完全には振り払っていなかった。《Discipline》(1981年)と《Three of a Perfect Pair》(1984年)では、新たなヴォーカリスト兼ギタリストのエイドリアン・ブリュー(Adrian Belew, 1949–)――それ以前にはフランク・ザッパ、デヴィッド・ボウイ(David Bowie, 1947–2016)、Talking Headsと演奏していた――が、1970年代半ばのCrimsonの混沌とした不協和音のなかではめったに聴かれなかったメロディアスさを加えた。トニー・レヴィン(Tony Levin, 1946–)はChapman Stickを担当していた。これはタッピングのみで演奏するベースに似た楽器であり、同じようにメロディックで音楽的な声部をバンドにもたらした。〈Frame By Frame〉のような曲は、このラインナップの技巧的な力量と、新たに獲得されたメロディアスさの双方をよく示している。何より、この時期のKing Crimsonこそが、Faraquetのようなマスロック・バンドに最も近く結びつく。楽曲はより首尾一貫した構造をとるようになった一方で、複雑さと慣習への拒絶は保たれていたからだ。

 

マスロックとのつながりを結びつける

さて、ようやくPart 1で出発した地点へと戻ってきた。King Crimsonの《Discipline》がリリースされた頃、すでに見てきたように、Black Flagはプログレ・ロックのモチーフを自分たちのアルバムへと組み込み始めていた。そして、それは多くの人々からマスロックの最初期のルーツと見なされている。もちろん、マスロックに対するプログの影響は、さらに後の時代まで長く伸びている。Don Caballero、Slint、U.S. Maple、The Jesus Lizardといったバンドに加え、Battles、マーニー・スターン(Marnie Stern, 1976–)、That Fucking Tank、Giraffes? Giraffes!、Tera Melosといった現代のアクトも、King Crimsonから音楽的影響を受けたことを公言している。

 

以前にも述べたように、マスロックを他の現代的なジャンルと分け隔てているのは、プログレッシブ・ロックの拍子的な複雑さを備えながら、それと同時にパンクの根底にある姿勢とDIYの倫理をも持っていることである。実際、Crimsonは、当時一般的だったロックの定型から自由になるための手段として、自分たちの音楽を意図的に技巧性によって飾り立てた。今日のマスロックに明らかに見て取れるのは、このイデオロギーの継承である。そこでは、アーティストたちは音楽における既知のものから脱するために、洗練と複雑さへと向かう。もちろん、既知のものから脱しようという衝動がプログレ・ロックの時代に始まったわけではないし、当時のミュージシャンの多くも、それ以前のアーティストから影響を受けていた。となれば、「数学的な音楽」の全貌を理解したいのであれば、さらに深く掘り下げていく必要がありそうだ……。

 

「マスロックの歴史」第3部では、さらに時代を遡ってジャズの世界へ向かい、ジャズとプログレッシブ・ロック、そしてそこからマスロックへと至るいくつかのつながりを結びつけていく。

 

←マスロックの歴史①:「じゃあもうブラック・フラッグもマスロックってコト?!」

→マスロックの歴史③:5分考えよう、《Time Out》が最初のマスロック・アルバムなのはなぜか

【記事翻訳】マスロックの歴史①:「じゃあもうブラック・フラッグもマスロックってコト?!」

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訳者解題

 本記事は、独立系音楽ウェブメディアFecking Bahamasに掲載された、ニック・ハンター(Nikk Hunter)とウィリアム・コバート(William Covert)による連載企画「マスロックの歴史」第1部「じゃあもうブラック・フラッグもマスロックってコト?!(The History of Math Rock Pt 1: “So I Guess Black Flag is ‘Math Rock’ Now?!”)」の全訳である。全4部構成であり、この①では1976年から2007年までのマスロックの歴史について、米国のシーンや影響力のあったバンド、ミュージシャンを軸にまとめている。

 

 そこから②と③では時代を遡行して、②ではプログレの歴史、③では20世紀初頭以降のジャズの歴史をたどることで、同じく「変拍子」を旨とするマスロックの種別性を明らかにしている。④では時計の針を戻して、マスロックを特徴づける要素がドラムからギターへといかにして変化していったのかをたどっている。なお、①②はニック・ハンターとウィリアム・コバートの共同執筆だが、③④はウィリアム・コバート単独の記事となっている。それぞれの記事は以下の通り:

 

  • マスロックの歴史①:「じゃあもうブラック・フラッグもマスロックってコト?!」(元記事)
  • マスロックの歴史②:「マスをやる前にプログレを学びな」(元記事/日本語版)
  • マスロックの歴史③:5分考えよう、《Time Out》が最初のマスロック・アルバムなのはなぜか(元記事/日本語版)
  • マスロックの歴史④:ノイズに何があった?! マスロック・サウンドの進化(元記事/日本語版)

 

 この連載がすぐれているのは、結節点となった人や場所を軸にシーンの生成と発展を捉える、という基本を押さえたうえで、マスロックというジャンルに対して、通り一辺倒の歴史観を提示していることにある。もちろん、本文中で著者たち自身が述べているように、歴史観というものは更新されなければならない。しかし、更新するためにはマイルストーンとなる歴史観もまた必要となる。マスロックが音色をもとに基本的に曖昧に語られがちなジャンルだという点を考慮すれば、この意義は大きい。これを元に、米国以外のマスロックはどのようなものであった/であるのかを考えていくのも面白い。


最後に、突然の連絡であったにもかかわらず、本記事の翻訳を二つ返事で快諾いただいた著者のニック・ハンター氏とウィリアム・コバート氏、およびFecking Bahamas編集部のホワイトサイド氏に感謝を申し上げる。

I would like to express my sincere gratitude to Nick Hunter and William Covert, the authors of the “History of Math Rock” articles, as well as to Mr. Whiteside of the Fecking Bahamas editorial team, for so readily agreeing to allow me to translate the articles despite my contacting them out of the blue.

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率直に言おう。私たちは、40年にわたるマスロックの歴史を、十分な裏づけを備え、省略なく、完全なかたちで書き上げようと試みることはできる。だが、それでもなお、その記述は間違っているだろう。世界中の理論家や歴史家を悩ませてきたもの、それは、新たな反証の出現や主観的な議論、そして場合によっては著者自身の偏見によって、それまでの記録が書き換えられてしまうことである。さらに事態を複雑にしているのは、批評家や歴史家から見過ごされてきた無数の「不遇の存在」たちである。彼らが後になって発見されると、それまでの物語そのものを組み替える必要が生じる。パンク・ロックにおけるDeath、ヘヴィ・メタルにおけるBlue Cheer、そしてそのほか数え切れないほどの例がそうだ。

 

マスロックのように輪郭の変わりやすいジャンルとなれば、事情はおそらくさらに難しい。根本的に言えば、「マスロック」とは、パンクやハードコアの歪んだギター・リフと、主として1970年代のプログレッシヴ・ロックに結びつけられる拍節上の非対称性とが融合したものである。そして、これから私たちが提示するマスロックの歴史も、この融合の過程を示すものになるだろう。テオ・ケイトフォリスは論考「オルタナティブはいかにしてプログレッシブ化したのか:マスロックという奇妙な事例について(How Alternative Turned Progressive: The Strange Case Of Math Rock)」において、マスロックという音楽を「一定で、分割可能な拍動が存在しないこと」によって特徴づけられるものと定義している*1。

 

しかし過去を振り返れば、「マス」という言葉は、構造的に不協和的なものなら何にでも用いられ、ハードコア(「マスコア」)やメタル(「マスメタル」)に適用されてきた。したがって問題となるのは、このラベルがきわめて広い領域を覆いうるということである。少し範囲を広げさえすれば、Yesやデイヴ・ブルーベック(Dave Brubeck, 1920–2012)、さらにはイーゴリ・ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky, 1882–1971)による、拍子を自在に変形させる作品まで「マス」と呼ぶことができてしまう。それでは「マス」とはいったい何なのだろうか。それはジャンルなのか、それとも、おそらく形容詞のようなものなのだろうか。

 

この全3回のシリーズでは、私たちは大きな野心を胸に秘め、「マスロック」だけでなく、「マス」という言葉そのものについても、これまでの認識を整理し直そうとしている。この言葉が一貫して嘲笑や軽蔑の対象となってきたことは、一部の人々にとっては何ら驚くべきことではない。1980年代から90年代にかけて育ったオルタナティヴ系の若者たちの多くにとって、それは軽蔑的な含意をもつ言葉であり、見せびらかし、過剰な技巧、そして気取った衒学性を連想させるものだった(もっとも、こうした点は、ソロで速弾きを披露するヘヴィ・メタルのギタリストたちについて語られる際には、どういうわけか見過ごされがちなのだが)。

 

私たちは、音楽における「マス」の包括的な歴史を提示したいと考えている。まず、アメリカに根ざした1980~90年代のマスロック・ブームから出発し、そこから遡ってKing CrimsonやYesに代表される1970年代のプログレッシヴ・ロックの時代へ進み、最後にはさらに遠く遡って、前世紀以前のクラシック音楽作品にまで行き着く。そうすることで初めて、「マス」とは何なのかについて、ある理想的な像を描き始めることができるのかもしれない。しかし、この物語を正しく語るためには、まず1970年代のロサンゼルスから始めなければならない……。

 

1976–1985

ハードコア・パンクの初期ムーブメント:叫び、ポリリズム、マスという言葉

The Screamersのトマタ・デュ・プレンティ(Tomata du Plenty, 1948–2000)は、おそらく歌詞を「叫ぶ」ように歌った最初のパンク・ロックのフロントマンだった。いや、おそらくジャンルを問わず、最初の「スクリーミング・フロントマン」だったのかもしれない。ロサンゼルスのこのバンドは、2人のキーボーディスト、ドラマー、そしてデュ・プレンティという編成だった。紛れもなくパンク・バンドでありながら、きわめて異例の楽器編成である。The Screamersはマスロックではなかったが、すでに型破りだったジャンルに対してさらに型破りな方法で臨んだ彼らの姿勢は、1970年代末から80年代初頭にかけてロサンゼルスで結成されつつあった新世代のパンク・ロック・バンドに影響を与えた。そのなかでも、とりわけ2つのバンドがマスロックにとって重要である。

 

Black Flagは1976年、グレッグ・ギン(Greg Ginn, 1954–)によって結成された。当初はキース・モリス(Keith Morris, 1955–)――Circle Jerks、そして近年ではOFF!で知られる――がフロントマンを務め、その後、咆哮するようなヴォーカルと激しい怒りをむき出しにしたヘンリー・ロリンズ(Henry Rollins, 1961–)が後任となった。彼らはパンク・ロックに圧倒的に生々しく獰猛なサウンドを持ち込み、「ハードコア・パンク」というジャンルを確立するうえで決定的な役割を果たした。しかし、マスロックの歴史という観点から重要なのは、Black Flagが1984年に発表した《My War》である。それまでのアルバムから明確に逸脱したこの作品には、原初的なマスロックと呼びうる楽曲がいくつか収録されていた。すなわち〈Swinging Man〉〈Three Nights〉〈Scream〉である。

 

これらの曲の「マスっぽさ(mathiness)」は、主としてビル・スティーヴンソン(Bill Stevenson, 1963–)のポリリズミックなドラム演奏に由来していた。ギタリストのグレッグ・ギンが彼にMahavishnu Orchestraを聴かせたことがあり*2、その影響はここでの演奏だけでなく、Stevensonが参加したほかのバンド、The DescendentsやAllにおける演奏にも及んでいた。1985年、Black Flagは全編インストのアルバム《The Process of Weeding Out》を録音した。これはおそらく、グレッグ・ギンが自分に可能な限り奇妙で、難解で、挑戦的な音楽を書こうとした試みだった。そして、この作品こそ最初のマスロック・アルバムだった可能性すらある。

 

プログレはパンクに語りかける

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グレッグ・ギンのギター・プレイに対するMahavishnu Orchestraの影響*3は、初期パンク・ロックにプログレッシヴ・ロックが影響を与えていたことを示しており、それは後のマスロックを形作る初期設計図の重要な構成要素でもあった。Minutemenは1980年、サンペドロの若者たちによって結成された。その前身となったThe Reactionariesが解散した後のことである。The ReactionariesもBlack Flagと同様、Captain Beefheart and the Magic Bandのようなプログレッシヴ・ロックの大物から影響を受けていた*4。なお、Minutemenの最初のEP《Paranoid Time》をプロデュースしたのはグレッグ・ギンであり、それは短く鋭いパンク・ロック曲を矢継ぎ早に叩きつける作品だった。1981年に発表された《The Punch Line》は、全18曲を通じて、コンパクトで騒々しく、そして意図的に非商業的な音楽制作を展開した作品である。拍子そのものは明確に4/4から逸脱していないものの、アルバムにはギターとベースの実験的な掛け合いや、異例なほどシンコペーションを多用したドラムが含まれていた。興味深いことに、Minutemenが1982年に発表した大作《Double Nickels On The Dime》の18曲目には〈God Bows To Math〉という題名が付けられている。短いながらも複雑なシンコペーションを備えた曲であり、のちに「マスロック」という呼称が生まれることを皮肉にも予告していたかのようである。これは約10年後になされた主張(後述)とは食い違うものの、複数のミュージシャンから私たちが聞いたところでは、「マス」という語は少なくとも1980年代半ばから後半にはすでに使われていたという。Minutemenは、ギタリストのD・ブーン(D. Boon, 1958–1985)が交通事故で悲劇的な死を遂げた後、解散した。

 

1980年代初頭を通じて、プログレッシヴ・ロックが新世代の実験的パンクを形作りつつあった一方、北方でも興味深い動きが起こっていた。Black Flagが《My War》を発表する2年前、カナダ人兄弟のジョン・ライト(John Wright, 1962–)とロブ・ライト(Rob Wright, 1954–)は、ドラムとベースだけの2人組として初めてのスタジオ録音を開始していた。バンド名はNoMeansNo、アルバム名は《Mama》である。後の《Sex Mad》(1986)、《Small Parts Isolated And Destroyed》(1988)、《Wrong》(1989)ほどジャズ的でもパンク的でもなかったとはいえ、これらの作品にジャズ、プログレッシヴ・ロック、ポストパンクの影響があることは否定できない。

 

1970年代末のポストパンク運動――Gang Of FourやPiL〔Public Image Ltd.〕のようなバンド――が持っていた実験精神は、ライト兄弟にある種の自信を与えていた。つまり、ギターが存在しないことを補うため、より豊かなリズムと作曲によって「サウンドを厚くする」ことができるという自信である*5。ライト家には常に音楽があった。ジャズ、ロック、ビートルマニア、そしてビッグバンドである*6。そして、その痕跡は《Mama》にも確かに聴き取れる。ライト兄弟が《Mama》で始めたことは、ほどなくしてジャズとプログレッシヴ・ロックの要素を濃厚に含むパンク・ロックへと開花していった。

 

ノー・ウェイヴ:「グラインド」の気配を帯びた音楽的反乱

マスロックの歴史には、もうひとつ、やや見過ごされがちな系譜がある。ロサンゼルスのパンク・ロックが初期の実験的分岐を見せていたのと同じ時期、「ノー・ウェイヴ」運動が登場したのである。これは1970年代末、徐々にニュー・ウェイヴという流行を覆いつつあった露骨な陽気さと商業的成功に対する、思想的なカウンターとして現れた運動だった*7。

 

アーティストたちはニュー・ウェイヴに対する苛立ちとともに、醜く、分断され、まとまりを欠いた音楽を作り始めた。ノー・ウェイヴそのものは、おそらくその数年前から始まっていた。ブライアン・イーノ(Brian Eno, 1948–)がニューヨークの非営利アート・スペースArtists Spaceで行われた5日間のフェスティヴァルを観て直接的な影響を受け、自分が刺激的な反抗的音楽運動だと感じたものに焦点を当てたコンピレーションを急いで制作したのである。1978年のコンピレーション《No New York》は、ニュー・ウェイヴ音楽を貶めるかのような作品として登場した。その音楽には華やかさがなく、その代わりに、中心からずれ、空間的で、角張り、リズム的にも不規則だった。

 

ロサンゼルスで急速に拡大していたハードコア・パンク・シーンと同様、1970年代のプログレッシヴ・ロックとノー・ウェイヴのあいだにも興味深い接点が存在していた。Gongは、オーストラリア人ミュージシャンのデヴィッド・アレン(Daevid Allen, 1938–2015)が1967年にイギリスで結成した、非常に影響力の大きいサイケデリック・プログレッシヴ・ロック・バンドだった。1970年代半ばにGongが解散すると、アレンはニューヨークへ移り、ノー・ウェイヴに深く入り込んだ。そしてNew York Gongというバンド名で、新作《About Time》を発表した。

 

《About Time》はスタイルとしてはNo Waveでありながら、Gongにとって重要だったサイケデリック・プログレの要素もなお保持していた。この作品は、2人の重要人物を結びつけた。ベーシストのビル・ラズウェル(Bill Laswell, 1955–)とドラマーのフレッド・マー(Fred Maher, 1964–)である。New York Gongはやがて1979年、新たなバンドMaterialとして再編成され、さらにラズウェルとマーはその後、疑いようもなくマスロック的な理念を備えたノー・ウェイヴのバンド、Massacreを結成した。彼らの1981年のデビュー作《Killing Time》は今なお古典である。変拍子の上に突拍子もないコード進行を重ねた*8、奇妙な混合物だった。

 

1980年代初頭になると、ノー・ウェイヴはニューヨークのさまざまなベニューに広がっており、この物語に関係する興味深い作品も数多く発表されていた。《Killing Time》と同じ年、ジョン・ルーリー(John Lurie, 1952–)率いるインストのパンク・ジャズ・グループLounge Lizardsは、極端に角張ったセルフタイトル・アルバムを発表した。Swansの1984年の第2作《Cop》は、耳を削るように攻撃的で、奇妙なシンコペーションに満ちていた。そして、多くの音楽史家は「グラインド」という言葉が最初に用いられたのもこのあたりだと考えている。

 

1983年には、Massacreのメンバーだったビル・ラズウェルとアントン・フィアー(Anton Fier, 1956–2022)が新しいグループThe Golden Palominosに参加した。このバンドには、ノー・ウェイヴの象徴的存在であるアート・リンゼイ(Arto Lindsay, 1953–)がギターとヴォーカルで参加し、さらに当時まだ無名だったジョン・ゾーン(John Zorn, 1953–)も在籍していた。The Golden Palominosは、ノー・ウェイヴ、ノイズ・ロック、ジャズ、ファンク、ポリリズミックなワールド・ミュージック、そして、まあ、単純に「奇妙さ」としか言いようのないもののあいだを自在に行き来することから、「多様式音楽(poly-style music)」と形容された。

 

そのスタイルと作曲が持つ異種混交性、そして全般的な簡潔さと鋭さは、のちにゾーンが率いることで名高い、痙攣的ともいえるジャズ・バンドNaked Cityのための重要な土台となった。Naked Cityは、奇妙な拍子変化とバランスを意図的に崩した作曲という遺産を、1980年代末へと引き継いでいくことになる。

 

1986–1998


ギン、アルビニ、そしてインディー・ロックの隆盛

 

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ノー・ウェイヴの哲学の多くは、スティーヴ・アルビニ(Steve Albini, 1962–2024)が最初に結成したグループBig Blackにも受け継がれていた*9。 彼らは新種のnoise-makerであり、同時代の多くのパンクロックのバンドよりもはるかに獰猛だった。Big Blackは、人種、セックス、宗教信条をめぐる、強烈なまでに不快な歌詞を吐きつけた。ノー・ウェイヴの連中と同様、アルビニはメインストリームに腹を立てていた*10。そしておそらく、この嫌悪感こそが、急速に拡大していた包括的ジャンル「インディー・ロック」の鋳型のなかから、マスロックをひとつの明確な形として固めていく助けとなったのである。

 

インディー・ロックが及ぼした影響を理解するために、ここで少しBlack Flagのグレッグ・ギンと、とりわけ彼のレーベルであるSST Recordsに話を戻そう。 Black FlagとSST Recordsはいずれも、DIYという考え方を普及させ、音楽的創造の自由を推進することによって、パンクのシーンにおける創造性の爆発を促すうえで不可欠な存在だった。Black FlagとSST Recordsが米国のアングラな音楽コミュニティに示したのは、大手レーベルが定めた基準に迎合する必要はないということだけではなかった。角張ったリフ、ポリリズム、変拍子を加えることで、ロック音楽という概念そのものを実験し、解体することもできるのだと示したのである。

 

こうして花開いた音楽的想像力はパンク・シーン全体へと広がり、そこから、生々しさを持ちながらも、より親しみやすいタイプのロック音楽が姿を現し始めた。そして、その主要な旗手となったのがSST Recordsだった。この音楽はカレッジ・ステーション*11で人気を博し、大手レーベルの大物たちとは無関係にリリースされていた(ゆえに「インディー・ロック」という呼称が生まれた)。当時の主要なプレイヤーには、Husker Du、Meat Puppets、Minutemen、Butthole Surfers、Dinosaur Jr、Sonic Youth、Scratch Acid、Fugazi、The Replacementsなどがいた。インディー・ロックは伝統的なロック音楽の性質を備えながらも、大手レーベルの支配の外側で活動していた。批評家たちは、このシーンを「インディーのアングラ(indie underground)」と呼んだ。

 

オーバリン大学でのルネサンス

ここでオハイオへ移ろう。1980年代後半に広がっていたインディー・ロックのディアスポラ〔離散した民〕の多くが、オーバリン大学(Oberlin College)でさまざまな音楽的コラボを触発し始めていた場所である。ジョン・マッケンタイア(John McEntire, 1970–)――のちにポストロック集団 Tortoiseを結成することになる――はオーバリンに通っており*12、そこでポップ・パンクのバンドSquirrel Baitのデイヴィッド・グラブス(David Grubbs, 1967–)と出会った。 1989年、グラブスはマッケンタイアを自身のハードコアのグループであるBastroに迎え入れ、アルバム《Diablo Guapo》を録音した。Bastroはその後シカゴへ移り、Gastr Del Solへと変化していった。ちなみに、グラブスとSquirrel Baitで活動していたブライアン・マクマハン(Brian McMahan, 1969–)とブリット・ウォルフォード(Britt Walford, 1970–)は、1986年にSlintを結成し、1989年には、知名度こそ低いものの説明しがたいほどマスロック的なデビュー作《Tweez》を録音している。

 

ほぼ同じ時期、もうひとつの重要なオーバリン大学のバンドが活動していた。Bitch Magnetである。ギタリストのジョン・ファイン(Jon Fine)とベースのスヨン・パーク(Sooyoung Park, 1967–)は、1986年の2年次にかなり偶然の成り行きで出会い、その後1987年にドラムのオレステス・デラトーレ(Orestes Delatorre)を迎え入れた*13。1988年のEP《Star Booty》にはスタイル面でポストハードコアの敏捷な傾向が見られたが、マスロックの物語のなかで特に注目すべきなのは、1989年のアルバム《Umber》である。《Umber》の10曲はほぼすべてインストであり、拍子の不規則性に満ちていた。

 

《Umber》のリリース当時、デイヴィッド・グラブスはすでにBitch Magnetの正式な4人目のメンバーとなっており*14、ブリット・ウォルフォードも1990年の2作目《Ben Hur》に追加でギターを録音している。オーバリン大学は、ある意味では偶然に、多くのマスロックのミュージシャンが交差する場所となっていた。

 

スティーヴ・アルビニはエンジニアを通じてこのコミュニティを結びつける中心人物となっており、ここまでに挙げたアルバムのすべてをプロデュースしていた。その後もSilkworm、Cheer Accident、A Minor Forest、Rodanといった初期マスロック・バンドの数々と仕事をしている。ミネアポリスを拠点とするもうひとりの著名なエンジニア、ブライアン・ポールソン(Brian Paulson)は、アルビニを介してデイヴィッド・グラブスおよびBastroと知り合った。Slintは、彼がBastroと行った仕事を聴いた後、ポールソンに《Spiderland》の録音を依頼した。アルビニとポールソンは、ミッドウェストの主要なマスロック・バンドのいくつかと仕事をした最高のエンジニアの2人であり、1990年代初頭に彼らが行った仕事が、このシーンのかなりの部分を確立する助けとなった。

 

ミッドウェストの爆発

ミッドウェスト周辺で活動が活発化したのと同時期に、いくつもの重要なバンドが現れた。Snailboyは1987年頃、マーク・シッピー(Mark Shippy)、アル・ジョンソン(Al Johnson)、トッド・ランパレリ(Todd Lamparelli)、ルーク・フラントム(Luke Frantom)によって結成された。彼らは《Mungo》(1990)と《Spoo Heaven》(1991)という2枚のシングルを発表した後、1994年にShortyへと名を変えた。1990年には、同じく大音量を特徴とするバージニアのBreadwinnerが、構造的に複雑なインストのメタルを、揺れ動くような奔流として演奏していた。彼らのシングルはコンピ盤《Burner》にまとめられたが、発表されたのは1994年になってからだった。ワシントンDCでは、AutoclaveがEP《Go Far》を発表していた。1991年にはサン・ディエゴのDrive Like Jehuがセルフタイトルのデビュー作を発表した。Dischord RecordsとTouch And Go Recordsはいずれも、こうしたアルバムやその他多くの作品の頒布において、着実に主要なプレイヤーとなりつつあった。

 

キンセラ兄弟とミッドウェスト・エモの台頭

1989年、シカゴ都市圏のティーネイジャーたちがひとつのバンドを結成した。このバンドもまた、その後数十年間にわたってジャンルにかなり大きな影響を及ぼすことになる。そのバンドとはCap’n Jazzであり、ティーネイジャーたちはティム・キンセラ(Tim Kinsella, 1974–)、その弟マイク・キンセラ(Mike Kinsella, 1977–)、そして友人のサム・ズリック(Sam Zurick, 1975–)とヴィクター・ヴィラレアル(Victor Villarreal)だった。

 

Cap’n Jazzのサウンドはパンクと実験的な曲構造を組み合わせたもので、当時ほかのミッドウェストのマスロック・バンドに影響を与えていたBig BlackやThe Jesus Lizardのようなノイズ・ロックよりも、Rites of SpringやEmbraceのような、東海岸のエモ寄りのハードコアを想起させるものだった。Cap’n Jazzは、東の同時代バンドに典型的だった抑鬱的で暗いサウンドから離れ、短三和音よりも長三和音を選び、よりキャッチーであると同時に、よりテクニカルなエモを作り出した。

 

ヴィクター・ヴィラレアルによるタッピングと、バンドによる変拍子(odd-time signature)の使用こそが、彼らをマスロックとエモの境界線上に立った最初期のバンドのひとつにした。彼らの貢献は、この物語が進むにつれて何度も姿を現すことになる。

 

「マスロック」の誕生

1990年代初頭まで、ミッドウェストおよびその外側で急増していたこの音楽の大部分は、依然として「ポストハードコア」と分類されていた。しかし、それを同じレーベルで括られていたBig Black、Fugazi、Naked Raygunのようなバンドと一緒にすることには、かなり無理があった。この音楽には決定的な特徴があった。不協和であり、構造的に複雑だったのである。ニュージャージー出身のギタリスト、マット・スウィーニー(Matt Sweeney, 1969–)は、高校時代のバンドSkunk――ちなみにビリー・コーガンのお気に入りでもあった――が解散した後、1987年頃にWiderという比較的無名のバンドを結成していた。スウィーニーによれば、「マスロック」という言葉が生まれたのはまさにここだったという。2006年のPitchforkのインタビューで、彼は次のように述べている。

 

「(マスロックという言葉は)俺たちの友人のひとりが、悪口として考え出したんだ……そいつの冗談というのは、曲を聴いてもまったく反応せずに、次に電卓を取り出して、その曲がどれくらい良いのかを計算する、というものだった。だからそいつはそれをマスロックと呼んでいた。完全な悪口だったし、実際それで正しかったんだ。」

 

この言葉をめぐってどのような論争があったにせよ、マスコミが言葉を繰り返し使うという自然な習性によって、この「マスロック」という呼称は次第に広まり、やがてスウィーニーの主要なバンド、Chavezを形容する言葉として戻ってくることになる。1993年にニューヨークで結成されたChavezのメンバーらは、「(自分たちが)それまでに聴いた何かに似ているものは何ひとつ演奏したくなかった」*15。彼らのアルバム《Gone Glimmering》(1995)と《Ride The Fader*16》(1996)は、そのことを今なお揺るぎなく証明している。どちらも、馴染み深い90年代のスラッカー・ロック、グランジを取り上げ、それを新たなやり方でねじ曲げている。

 

ほぼ同じ時期、マスロックでもっとも著名なグループのひとつであるDon Caballeroが、デビュー作《For Respect》を発表していた。新たに加入したギタリストのイアン・ウィリアムズ(Ian Williams, 1970–)――のちにBattlesを結成する――は、Breadwinner*17とCardiacs*18の双方から強い影響を受けていた。ヴィラレアルと同様、ウィリアムズも卓越したタッピングの技術を持っており、のちにそれをDon Caballeroの、すでに複雑かつ雑多だったサウンドへと持ち込んだ。

 

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全米各地で何かが起こっていた。チャペルヒルでは、アッシュ・ボウイ(Ash Bowie)とデイヴ・ブライロウスキー(Dave Brylawski)が1990年にノースカロライナ大学で出会い、Polvoというバンドを結成した。風変わりな楽器編成の使用と、トレモロアームを使った大胆な実験によって、そこにはある種のサイコパスめいた雰囲気を帯びた大胆なインディー・ロックが生まれた。Polvoは、ブライアン・ポールソン(《Spiderland》をプロデュースした人物)がエンジニアを務める一連のアルバムを発表した。ポールソンはまた、マーク・シッピー(Mark Shippy)とアル・ジョンソン(Al Johnson)(Snailboy / Shorty)が新たに結成したノイズ/マス・ロックのバンド、U.S. Mapleのアルバムもプロデュースした。カリフォルニアの反対側の海岸では、ロブ・クロウ(Rob Crow, 1971–)がHeavy VegetableやThingyのようなマスロックのバンドに奇妙な構造のメロディを持ち込んでいた。

 

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エネルギーはシカゴで爆発した

シカゴに戻ると、スティーヴ・アルビニは自らのマスロック・バンド、Shellacを結成していた。リズムの面では明らかにBig Blackから離れつつあったが、そぎ落とされたミニマリズム的 スタイルと、全般的な「腹を立てている感じ」はそのまま残っていた。アルビニは相変わらず、性、暴力、アナーキーをめぐって、その舌という剣から言葉を吐き出しており、そこにはいつもの危うさがあった。

 

近隣のDCでは、Shudder To Thinkというバンドが《Get Your Goat》を発表した。Polvoと同様、Shudder To Thinkにはインディー/ポップ的なふるまいがあった。しかし、何かが……違っていた。曲には、まるで自然発生的に現れるかのような静止/開始の間奏が満ちており、そのリズムは、のちにThe Dillinger Escape Planがメタルにもたらすことになるポリリズムの複雑さとよく似ていた。シチリアのバンドUzedaは、インディー・ロックから不協和なノイズロックへと次第に大きく離れていくにつれてTouch & Go Recordsの目に留まった。Touch & Goは1995年に《4》を発表した。

 

1995年にCap’n Jazzが解散した後、ティム・キンセラはエモ/マスロックのバンドJoan of Arcを結成した。これは彼にとってもっとも多作な音楽プロジェクトとなり、ミッドウェスト・エモのサウンドをさらに明確にすることにも貢献した。マイク・キンセラ、サム・ズリック、ヴィクター・ヴィラレアルは、この20年間、さまざまな形態のJoan of Arcで演奏してきた。それに加え、数多くの著名なマスロック/エモのミュージシャンも参加している。たとえば、ティムとマイクの従兄弟であるネイト・キンセラ(Nate Kinsella, 1980–)(Birthmark)や、ザック・ヒル(Zach Hill, 1979–)(Hella)、ベン・ヴィーダ(Ben Vida, 1974–)(Town & Country、タイヨンダイ・ブラクストン(Tyondai Braxton, 1978–))、マット・クラーク(Matt Clark)(Pinebender)、ケイル・パークス(Cale Parks)(Aloha、Owen、Yeasayer)、デイヴィッド・グラブス(Bastro、Gastr del Sol)、バンディ・K・ブラウン(Bundy K. Brown)(Bastro、Gastr del Sol、Tortoise)、ティム・ルティリ(Tim Rutili, 1967/1968–)(Califone)などである。

 

1997年、ヴィクター・ヴィラレアルとサム・ズリックはマスロックのインストバンド Ghosts and Vodkaを結成した。その結成とほぼ同じ頃、マイク・キンセラは大学進学のためシカゴの南にあるイリノイのシャンペーン・アーバナへ移った。シャンペーン・アーバナにいた間、マイクは、自身がフロントマンを務める最初のバンドを結成した。それは、型破りな旋律の曲構造を基盤としながら、マスロックとスロウコアの要素も含んだ第二波エモ・バンド、American Footballだった。Ghosts and VodkaとAmerican Footballはいずれもアルバムを1枚ずつ発表し、両バンドとも2001年までに解散していた。

 

1990年代には、世界各地でさらにいくつもの注目すべきマスロックの担い手が登場していた。The Monsoon Bassoon、Faraquet、C-Clamp、Sharks Keep Moving、Sweep the Leg Johnny、31Knots、Turing Machine、Ativin、そして、それらよりはるかにノイジーなCraw、Keelhaul、Colassamite、Dazzling Killmenなどである。物事の進み方はゆっくりだった。だが、それでも進んでいた。

 

1999–2007

多様化するマスロック

より現代に近づくにつれて、マスロックは全体として、さまざまな形態を見せ始めていた。シカゴでは、Cap’n Jazzのオリジナル・メンバー4人――ティム・キンセラ、マイク・キンセラ、サム・ズリック、ヴィクター・ヴィラレアル――が、Owlsという名前で再び集まった。彼らは2001年にスティーヴ・アルビニとともに1枚のアルバムをレコーディングし、再結成したかと思うと、同じくらいあっという間に解散した。Owlsでは、ヴィラレアルの精巧なギター・タッピングによるフレーズが、それまででもっとも高度なものとなっていた。このバンドは、クリーンで軽やかでありながら、それでもなお性急で目まぐるしいマスロックの感覚を体現していた。クリーン・トーンによる複雑なギター・メロディ――たいていの場合タッピングで演奏される――は徐々に広がっていき、のちにはPiglet、Them Roaring Twenties、Monster Machismoといったバンドもこれを用いるようになった。

 

よりノイジーでディストーションの強い側には、Tera Melosがいた(そして現在もいる)。彼ら自身は「マスロック」という言葉を実際のところまったく理解していなかったが*19、その音楽は常にマスロックに分類されてきた。Tera Melosは2004年に結成され、影響の大部分をノイジーなパンク・バンドから受けていたが*20、4/4拍子のギター・リフを歪ませ、もう少し奇妙なものへと変えていくようになった。

 

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1990年代末頃には、ノイジーなマスロックの2人組も数多く結成されていた。2人組という編成自体は、特にノイズ・ロックのLightning Boltのおかげもあって、すでにアンダーグラウンドの音楽シーンで十分に定着していたが、マスロックの2人組は、速くジャングリーなギター・リフに、強烈なポリリズミック・パーカッションと、雰囲気を唐突に切り替える展開を組み合わせた。この動きは、1998年にCheval de FriseとChevreuilがともに結成されたフランスで始まったように見える。Hellaは2001年にカリフォルニアで結成され、その後、このサブジャンルに大きな影響を与えることになる。

 

マスロック、UKへ

2000年代初頭から半ば頃にかけて、UKとアイルランドでは新たなエネルギーの爆発が起きていた。それはポスト・ハードコア、インストゥルメンタル・ポスト・ロック、マスロックのバンドが一つに交わるシーンだった。ダブリンのThe Redneck Manifestoは1998年から活動していたが、批評家から高い評価を受けた《Thirtysixstrings》がリリースされた2001年頃から、その作品は新たな聴衆に届き始めた。ダブリンからさらに北に位置するバンガーでは、もうひとつの注目すべきバンド、Tracer AMCが活動していた。基本的にはポスト・ロックのバンドだったが、それでもこのシーンのほかのバンドに影響を与えた。

 

Youthmovie Soundtrack Strategiesは2002年に結成された。当初はよりノイジーなポスト・ハードコアのサウンドを持っていたが、やがて徐々に、より複雑な領域へと進んでいった。オックスフォード出身の若いグループThe Edmund Fitzgeraldは、この頃YMSSとのスプリットを制作していた。彼らは長く反復的でありながら、心地よいほどバラバラに分断されたマスロックを演奏していたが、その後、マス/ポップ・バンドFoalsで、よりメインストリームな成功を収めることになる。The Edmund FitzgeraldはSweep The Leg JohnnyやHellaのようなマスロック・バンドから影響を受けており*21、その影響は彼らのサウンドに控えめながらも表れていた。

 

Tired Irieは2004年にレスターで結成された。その音楽には興味深い拍子と複雑なギター・フレーズが含まれており、地元の新世代のミュージシャンたちに影響を与えた可能性が高い。同じ頃、オックスフォードではThis Town Needs Guns(TTNG)も結成されていた。このシーンを支えたマスロックおよび非マスロックのプレイヤーは、ほかにも大勢いた。Cats and Cats and Cats、Reuben、The Jesus Years、You Slut!、The Little Explorer、Spy Versus Spy、Stapleton、Forward Russiaなどである。

 

TTNGと同様、これらのバンドのいくつかは、キンセラ/ヴィラレアル/ズリックの各プロジェクトから影響を受けており*22、鮮やかで角張ったギター・メロディを一貫して用いる点にも、興味深い類似が見られる。ここで重要なのは、これらのバンドが、面積の小さなUK各地に活気あるシーンを生み出し、ツアー・サーキットを組むのに適した環境を作るのに貢献したことである。そして2000年代半ばまでには、少なくとも部分的には、マスロックはUKで再び健在となっていた。And So I Watch You From Afar、Colour、Adebisi Shank、そして奔放な間奏を特徴とするTubelordといったバンドが、幅広い人気を獲得するようになったのである。

 

ここから先の物語

こうして私たちは、必然的に現在に近い時点へとたどり着く。そこでは当然ながら、マスロックはかなり異なるものになっている。ここまで私たちが提示してきた議論に従えば、Enemiesのような現代のマスロック・バンドは、Breadwinnerのノイジーで耳を削るような獰猛さと、Massacreのアンビエントでノー・ウェイヴ的な不協和音とのあいだに、いささか居心地悪く押し込められることになる。

 

一見すると、これは少々当惑させられることかもしれない。しかし、これらのミュージシャンに一貫して見られるモチーフは、構造や作曲の面で慣れ親しんだ音楽から、積極的に離れようとする姿勢である。型にはまらない、馴染みのない音楽のスタイルを切り拓こうとする欲求は、論争的な意図から生じる場合もあれば、美学的な意図から生じる場合もあり、あるいは特に意識することなく生じる場合もある。テオ・ケイトフォリスは、マスロックの「マス」を、ミュージシャンの側ではなく、リスナーの側に位置づけている*23。

 

「マス」という言葉は、音楽そのものの複雑さを表すために使われているわけではない。というのも、その音楽はたいてい、分析して構造を見極めること自体はそれほど難しくないからだ。むしろ「マス」が表しているのは、リスナーがその音楽の複雑さを読み解くために取らなければならないアプローチである。つまり、問題解決の能力を用いて音を解きほぐし、その秘密を明らかにすること――それはちょうど、数学者が論理を用いてパズルを解きほぐしていくのと似ている。マスロックのミュージシャンたち、そしてその先駆者たちは、数学的なリスナーにとって、味わい深いパズルとして立ち現れる音楽を作っているのである。

 

私たちの物語は間違っているかもしれない。ひとつのジャンルの歴史を要約することは難しい。しかし、おそらく「マスロック」は、このようにして生まれたのだろう。そして、「マスロック」という言葉がどれほど気取った響きを持っていようと、あるいはどれほど侮蔑的な言葉であろうと、現在ではこの言葉は、主としてパンクに根ざしたミュージシャンたちが、キー、ムード、拍子を変化させることによって、標準的なロック・ミュージックをどのように乗り越えていくのかを表すものとなっている。私たちに言わせれば、それは称賛されるべきことである。

 

→マスロックの歴史②:「マスをやる前にプログレを学びな」

 

 

*1:Cateforis, T. (2002). How alternative turned progressive: the strange case of math rock. In Progressive Rock Reconsidered (K. Holm-Hudson ed.), 243–260, London: Taylor and Francis.

*2:http://www.invisibleoranges.com/2013/01/heavy-metal-be-bop-9-greg-ginn/〔リンク切れ〕

*3:同上

*4:http://inflooenz.com/?artist=Minutemen&influencer=captain+beefheart+%26+the+magic+band〔リンク切れ〕

*5:英国の音楽ウェブメディア『クワイエタス(The Quietus)』によるNoMeansNoメンバーへのインタビュー(2013年6月17日掲載)

*6:https://pitchfork.com/features/articles/6764-no-the-origins-of-no-wave/〔リンク切れ〕

*7:同上

*8:リンク切れ

*9:http://epitonic.com/features/interviews/interview-steve-albini/〔リンク切れ〕

*10:同上

*11:〔訳註〕大学が保有し、学生が選曲や番組制作に深く関わる非商業・教育系のFM局。1980年代の米国では、大学ラジオが商業FMでは流れないインディー・ロック音楽を積極的に放送し、こうしたバンドの知名度を高める重要な媒体となっていた。詳細は以下を参照。Jewell, K. R. 2023. Live from the underground: A history of college radio. Chapel Hill: University of North Carolina Press.

*12:https://www.jimdero.com/OtherWritings/OtherMDMcEntire.htm

*13:http://www.chunklet.com/index.cfm?section=blogs&ID=702〔リンク切れ〕

*14:AllMusic掲載の《Umber》のレビューより

*15:https://books.google.co.uk/books?id=xwkEAAAAMBAJ&pg=PA10&dq=chavez+%22matt+sweeney%22&hl=en&ei=8F0MTZeqAcOHhQfzoIi5Dg&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2&ved=0CCoQ6AEwAQ#v=onepage&q&f=false

*16:リンク切れ

*17:http://www.avclub.com/review/loincloth-emiron-balls-of-steelem-67715〔リンク切れ〕

*18:http://www.cardiacs.com/reviews/album-reviews-guns/〔リンク切れ〕

*19:http://flabmag.com/podcast/math-rock-for-dummies-tera-melos-nick-reinhart-explains/〔リンク切れ〕

*20:同上

*21:https://drownedinsound.com/in_depth/11876-bands-we-love--part-2352342

*22:https://drownedinsound.com/in_depth/3882204

*23:Cateforis, op.cit.